毒ガス兵器撤去のたたかい
2019年(令和元)5月28日から12月27日まで、当館展示室で所蔵資料展「毒ガス兵器撤去のたたかい 1969-1971」を開催しました。1969年(昭和44)7月、知花弾薬庫区域で発生した神経ガス漏洩(ろうえい)事故をアメリカの雑誌記者がスクープしたことにより、沖縄の米軍基地に大量の毒ガス兵器が保管されている事実が明らかになりました。それから毒ガス兵器の撤去が終了する1971年(昭和46)9月までの間、生命を守り平和を求める住民のたたかいが続けられました。
この毒ガス移送を、米軍は「レッドハット(赤帽)作戦: Operation Red Hat」と名付けました。
■1969年-空にB52、海に原潜、陸に毒ガス
■恐怖の神経ガス兵器
■軍事基地の矛盾
■1971年1月13日 第1次移送
■1971年7月15日~9月9日 第2次移送
■地域社会を揺るがすレッド・ハット作戦
■毒ガス移送と琉球政府
■戦後から現在 基地被害の歴史
—1996年(平成8)の県民投票
※展示資料から抜粋して掲載しており、当時の展示番号を反映しているため、順不同です。
■1969年-空にB52、海に原潜、陸に毒ガス
当時の沖縄は、1968年(昭和43)11月に嘉手納基地内でB52戦略爆撃機が墜落、原潜の寄港や米兵のあいつぐ凶悪犯罪などで、反基地感情が高まっていました。さらに、ひそかに沖縄へ毒ガス兵器が持ち込まれていた事実は、住民に衝撃を与えました。1万3千トンという大量の毒ガス兵器と、ベトナム戦争へ出撃するB52は、沖縄住民の生命や世界平和を脅かす象徴的な存在となり、これらの撤去を求める運動は粘り強く続けられました。
1. 琉球政府とアメリカの放射能汚染合同調査 調査のために海水を採取する琉米の担当者。アメリカの原子力潜水艦の沖縄寄港が始まり、住民は港湾の放射能汚染を懸念した。調査地はうるま市ホワイトビーチ、那覇軍港、奥武島。米軍は、放射能は微量で危険はないと発表したが、民間団体の調査結果は危険な数値を示した。 |
2. B52即時撤去を求めるデモ 米軍の戦略爆撃機B52は1968年(昭和43)2月以降、嘉手納基地に常駐し、同年11月19日に離陸に失敗した1機が基地内で爆発大炎上した。住民の撤去運動は激化した。建物の後ろにB52の尾翼が見える。 |
4. 2.4統一行動集会 嘉手納村総合グラウンド 生命を守る県民共斗会議は、ゼネストを含むあらゆる行動を展開してB52撤去、原潜寄港阻止、一切の核兵器撤去を求める方針だった。2.4ゼネストは直前に中止を余儀なくされたが、2.4統一行動集会を開催し、4万人が集まって基地被害に抗議する意思を示した。 |
54-1. B52 戦略爆撃機の墜落事件に対する抗議と同機の即時撤去を要求する決議 |
54-2. B52 戦略爆撃機の墜落事件に対する抗議と同機の即時撤去を要求する決議 |
55. ビラ 原水爆を禁止し人類に平和を! 原水爆禁止沖縄県協議会 |
58-1. B52撤去・原潜寄港阻止県民共闘会議 沖縄県祖国復帰協議会を中心に17団体が共闘会議への参加を呼びかけた。 |
58-2. B52撤去・原潜寄港阻止県民共闘会議 |
59. B52即時撤去原潜寄港阻止に関する要請 B52撤去・原潜寄港阻止県民共斗会議(別称 生命を守る県民共斗) |
60. ビラ 殺人機B52を即時撤去せよ 生命を守る県民共斗 |
■恐怖の神経ガス兵器
米軍がベトナム戦争で枯葉剤等を使用し甚大な被害をもたらしたことはよく知られています。沖縄への毒ガス兵器持ち込みの背景には、これらの生物化学兵器も駆使して激化する冷戦の構造がありました。
■軍事基地の矛盾
13. 3千名の解雇撤回要求 全軍労48時間ストライキ 米軍基地の維持のため、多くの住民が基地労働に従事したが、その労働条件や環境、基本的権利の保障は多くの問題があった。全軍労(全沖縄軍労働組合)は、1961年(昭和36)7月に活動を始め、1969年(昭和44)には組合員2万2千人を擁する沖縄最大の労組だった。 |
14. 全軍労 48時間ストライキ 不当解雇撤回要求 1969年(昭和44)、沖縄施政権の日本返還が決まった直後から、米軍は地元の基地労働者の大量解雇を始めた。全軍労は「首を切るなら土地を返せ」として、ストライキなどで米軍当局に抵抗した。米軍基地のほとんどは、住民の農地や宅地といった、住民生活の基盤を接収して形成されていた。 |
15. 国頭村の米軍演習場を視察する屋良行政主席 1970年(昭和45)12月22日、米軍は国頭村伊部岳一帯650haでの実弾射撃演習を31日から行うと通告した。山林を生活の場とする住民は演習区域に入って実力行使の抵抗を示し、米軍を演習中止に追い込んだ。毒ガス移送に揺れる中部だけでなく、やんばるでも生活を守る住民のたたかいが続いていた。 |
16. 3千名の解雇撤回要求 全軍労48時間ストライキ |
■1971年1月13日 第1次移送
住民の激しい反発や国際世論への配慮から、アメリカは毒ガス兵器の沖縄からの撤去を約束しますが、移送先を見つけることができずに、長い時間が経過しました。
1971年(昭和46)1月1日、ランパート高等弁務官が「1月10日から12日の間に、マスタード(HD)兵器150トンをジョンストン島に向けて移送する」と発表しました。移送路にあたる石川市・具志川村・美里村(いずれも当時)の住民は、米軍作成の「安全対策要綱」を完全に信頼できないとして、毒ガスの通過に難色を示しました。徹夜の調整の結果、第1次移送は13日に延期されました。この日、移送コースに含まれる地域の住民5千人が避難しました。
18. 毒ガス兵器をトラックに載せる米兵 知花弾薬庫 |
19. 防護服を着て、毒ガス移送に臨む米兵 知花弾薬庫 |
21. 毒ガスのギセイはごめんだ 登川(現・沖縄市)付近を通過する毒ガス移送のトラック。沿道の住民は自主避難したが、米軍は、避難の必要はないから補償も不要という立場をとり、住民の反発を招いた。 |
22. 集落内を走り抜ける、毒ガス兵器を積んだトラック |
23. 第1次移送終了後に会見する琉米の幹部たち 右手前よりランパート高等弁務官、屋良行政主席、ヘイズ少将。第1次移送は1日限りで終了し、本番となる第2次移送の試行的な意味合いがあったが、トラブルが頻発した。 |
24. 毒ガス移送の際の事故を想定した訓練 移送の万全を期すとして、米軍は事故を想定した訓練を牧港補給地区(キャンプ・キンザー)で公開した。この地区には薬品保管場所があり、右手に野積された大量のドラム缶も見える。 |
74-1. 沖縄の毒ガス撤去(米側説明等) 沖縄の毒ガス兵器の移送先であるジョンストン島の整備も進み、第1次移送を目前に、米軍は日本政府外務省で移送についてブリーフィングをした。スナイダー在京米大使館公使は「米国における基準より厳格かつ広範な基準が適用されている。これは毒ガスの移送が危険だからそうするのではなく、沖縄住民一般の心理的な不安に対する配慮」であると強調し、外務省側は納得した。 |
74-2. 沖縄の毒ガス撤去(米側説明等) |
74-3. 沖縄の毒ガス撤去(米側説明等) |
125. 屋良朝苗日誌 1970年(昭和45)12月20日午前6時頃、東京に滞在中の屋良朝苗行政主席のもとに、コザ市(現・沖縄市)で「軍と民衆集団大衝突」が起こっているとの電話が入った。屋良主席は、ハワイでの海外視察を終えて19日に東京へ到着したところだったが、東京での日程をキャンセルして急遽沖縄へ戻った。 |
76. 高等弁務官発陸軍省宛 高等弁務官 行政主席 会談記録 「コザ暴動」の夜が明け、東京から戻った屋良主席がランパート高等弁務官と会った時の会話内容が記録された文書。屋良は「アメリカ政府が、毒ガス撤去問題に関する不安を和らげるための何かを行い、糸満裁判において何らかの賠償の手段をとるのでないなら、昨今の沖縄の人々の態度や状況は改善されないだろう。沖縄人は本来、その感情があおられるような何か深刻なことが起きない限り、温和な人々である。ほかに頼みとするものがない時には、コザで起きたような騒動こそが『弱者が感情を表現できる唯一の手段』である」と述べた。 |
77. 毒ガス輸送経路略図 第1次 1971年(昭和46)元日、ランパート高等弁務官は「1月10日から12日の間に移送を行い、最初の積み出しはマスタード150トン」と発表。美里村はじめ沿道の住民は「安全性が確保されるまで輸送を延期せよ」として強硬に反対し、緊張が最高潮に達した10日の深夜、屋良主席とランパート高等弁務官は協議の末、12日に移送を延期することで合意した。 |
78-1. 第1次毒ガス移送対策に関する総括 |
78-2. 第1次毒ガス移送対策に関する総括 |
80. ビラ 県民の総力を返還協定粉砕 5.19ゼネストへ!! |
81. 米軍人による婦女子暴行事件等に関する抗議決議書 コザ市議会 |
■1971年7月15日~9月9日 第2次移送
第1次毒ガス移送の後、第2次毒ガス移送ルートの決定には各地域の住民の反対も大きく、複数のコース案が出るものの、決定に至るまでには時間を要しました。琉球政府は、第2次毒ガス移送にあたり、1971年(昭和46)7月14日には石川東恩納に「毒ガス撤去対策本部」を、美原、池原、栄野比、昆布の各集落に同支部を設置し、翌15日から56日間にわたって第2次移送が開始されました。移送期間中は、米軍トラックから船への移送の際の毒ガス兵器落下など事故が相次ぎました。また、移送ルートの27の学校は臨時休校となり、沿道の住民は、夏の暑い盛りを学校などの避難所で過ごし、各種の事業所も営業を停止せざるを得ませんでした。住民のこのような犠牲のもとに、太平洋に浮かぶジョンストン島へ全ての毒ガス兵器の送り出しが終了したのは、発覚から2年2か月後の1971年(昭和46)9月9日のことでした。
25. 第2次移送に備えて知花弾薬庫内に集積するトレーラー |
26. 第2次移送始まる 1971年(昭和46)7月15日、50日間以上におよぶ第2次移送が始まった。第1次のHDガスより毒性が高いとされるGB、サリン約1万3千トンが対象となった。 |
29. 夏休み中の学校で避難生活を送る 第2次移送が7月15日開始となったため、移送ルートの学校は例年より5日早く7月14日に終業式を終えて夏休みに入った。学校は住民の避難所に使用され、26年前の沖縄戦を思い出すと語る人もいた。米軍の給水車がみえる。 |
31. 避難所となった川崎小学校 机の上に寝かされる乳児ら |
32. 米軍が手配した避難用バスに乗り込む住民 |
65. 毒ガスについて―24の質問に答える― 7月から始まる第2次移送に備えて琉球政府が発行したパンフレット。正しい知識と相互理解のうえで毒ガス撤去を成功させようと訴えている。 |
■地域社会を揺るがすレッド・ハット作戦
米軍は1971年(昭和46)2月5日付で「第2次移送は、第1次移送に使用したルートを基礎とする」と発表しました。住民は「第1次移送時の安全対策は不十分」「第1次移送の補償問題も未解決」として、同じルートの使用に強く反対し、実力で阻止する意志も示しました。
4月1日、琉球政府は、毒ガス撤去対策米流合同委員会および同対策幹事会を設置し、住民の説得に努めました。新たな移送コース案は、美里村(現・沖縄市)、具志川市、石川市(現・うるま市)からも提案され、それぞれの地域の利害が対立しました。
4月30日、米軍は立法院が決議したルート案(美里村案折衷案)を認め、知花弾薬庫から瑞慶山ダム(現・倉敷ダム)北岸を迂回し池原に至る経路は米軍が建設するという新たな案を示しました。琉球政府はこれを了承し、これにより移送コースのうち65%が米軍基地内を通ることとなりました。しかし、栄野比や東恩納は第1次移送同様、トラックが集落を通過するため、住民の抗議は続きました。
5月6日、琉球政府は日本政府に対し、第2次移送ルートの道路建設および住民への補償等を含む諸経費につき協力を要請しました。日本政府は同ルートの建設に必要な経費20万ドルを負担することを米軍に通達しました。
33. 集落を連なって通過する移送車 コザ市(現・沖縄市)知花。毒ガス兵器を積んだトラックが集落内を通過するのを住民は強く拒否したが、第1次移送が強行された。50日余の長期間となる第2次移送にあたっては、どの地域も移送ルートにあたることを拒み、調整が難航した。 |
34. 天願桟橋を行くトラック 毒ガス兵器を載せた船は、太平洋に浮かぶジョンストン島へ向かった。ジョンストン島への移送は、近隣にあるハワイの住民も不安を示した。 |
35. 移送ルートにあたる美里村の住民に説明する屋良行政主席 美里村(現・沖縄市)の登川、池原地区は第1次移送コースに位置し、沿道には北美小学校や民家、商店があり、住民は移送に猛反対した。屋良行政主席は米軍と住民の板ばさみとなって苦悩した。起立しているのが屋良主席。 |
36. 移送を見守る石川市議会議員たち |
37. 具志川・天願桟橋に停泊する毒ガス兵器移送船 第2次移送には全5艦の移送船が使用された。毒ガス兵器を積み込んで出港するまでの数日間は天願桟橋に停泊し、特に東恩納、昆布地域の住民に恐怖を与えた。停泊最長期間は第1船シー・リフト号の11日間。 |
38. 毒ガス移送最終日 移送船を見送る 安堵の表情を見せる、右から屋良行政主席、宮里行政副主席。7月15日から56日間(実働日数34日)をかけて毒ガス移送が終了した。第2次毒ガス移送の移送量は130,937トン、移送トラック1,319台、移送回数は136回となった。 |
39. B52飛来抗議村民総決起大会に参加する住民 嘉手納村 米軍は、1968年(昭和43)11月に嘉手納基地で墜落炎上したB52を1970年(昭和45)10月6日に一時撤退させた。しかし、沖縄の日本復帰後に飛来を再開し、以後延べ440機(2018年時点)が確認されている。復帰後も基地被害は解消されていない。 |
40. 嘉手納基地に再飛来したB52の一群 |
50. 毒ガス撤去対策池原支部 |
51. 毒ガス撤去対策昆布支部 |
52. 毒ガス撤去対策美原支部 |
82. 米軍の毒ガス撤去移送に関しての要請 命を守る校区民総決起大会 美里中学校と北美小学校両校区は、北美小学校で総決起大会を開催、教員、児童、保護者、池原・登川区民ら約1,500人が参加して要請を決議した。住民は、一方的な移送コース決定に反対し、「命を守ること」を最優先にコースの再検討、十分な安全対策の確保、専門家を交えた村民との対話集会の開催などを求めた。 |
83. ポスター 毒ガス・B52撤去 安保廃棄・基地撤去 県民総決起大会 6月22日 普天間小学校 |
84. 具志川市字昆布区民大会決議文 昆布区は移送船が停泊する桟橋が近く、住民は不安と恐怖を感じていた。決議文は、長期の避難生活は農畜産の減収につながることから、精神的・経済的両面の補償を移送開始前に実施するよう要求し、移送前に支払いが無い場合は、移送を実力で阻止するとした。 |
85. 第2次移送経路案 比較図 |
86. 移送コースの長短 第2次移送コースの選定には、7案が審議された。 |
87-1. 毒ガス撤去具志川市説明会 琉球政府は移送コースにあたる地域で住民説明会を開催し、理解を求めた。具志川市栄野比区公民館には、区民はじめ市長、議員など97人が参加した。美里村では住民の反対でコース変更となった一方で、具志川市は相変わらず移送ルートにかかることから、住民への補償が問題となった。 |
87-2. 毒ガス撤去具志川市説明会 |
88. 毒ガス昆布区説明会々議録 80人の住民が昆布公民館での説明会に参加した。終了した第1次移送、また今後の第2次移送に関する住民への補償が定まらず、住民らの要求は主に補償のあり方と安全な避難に関するものとなった。 |
89. 書簡 PANG: PEOPLE AGAINST NERVE GAS発 屋良朝苗行政主席宛 |
90. 琉球政府による日本語訳 アメリカの「神経ガスに反対する人の会」シアトル支部は、屋良主席に対し、毒ガスを移動させず沖縄内で無毒化(中和)することを要求した。沖縄の毒ガス兵器のアメリカ内での移送先として、ワシントン州、オレゴン州、アラスカ州、グアム島などが候補に挙がったが、現地住民の反対により受け入れられず、アメリカ政府を苦慮させた。沖縄住民は毒ガス兵器がそれほどまでの危険を伴うことを認識せざるを得なかった。 |
91-1. 神経ガスの措置に関する米国二団体の要請に対する声明について アメリカの団体が要望する「沖縄内での毒ガス中和」に対して、行政主席が回答したもの。琉球政府は毒ガス兵器の中和および廃棄に理解を示しながらも、米軍は沖縄住民に対する安全対策を取っていないうえに今後も確たる約束をとりつけることができない現状であると述べている。そのうえで、沖縄での中和作業を要求することは、住民感情からして出来ないと返答している。 |
91-2. 神経ガスの措置に関する米国二団体の要請に対する声明について |
92-1. 毒ガス撤去移送実績表 オペレーション・レッドハットのまとめ。移送総量は第1次、第2次合せて1万3千243トン、積み込み日数は35日間、移送船はのべ6隻、トレーラー台数はのべ1,328台だった。 |
92-2. 毒ガス撤去移送実績表 |
■毒ガス移送と琉球政府
1970年(昭和45)12月、琉球政府は、主席訓令によって行政府内に「毒ガス撤去対策本部」を設置し、「米国ならびに本土政府は県民の生命、健康、財産にいささかも被害を与えないよう責任をもって措置すること、毒ガスの性状、貯蔵状況、撤去期日など計画一切を事前に県民に公表するよう米国政府に要求する」という方針で、米軍との折衝に臨みました。
米軍は「毒ガス兵器移送に関して住民福祉の立場から、お互いに安全性確保の共同責任がある。琉球政府の協力に感謝する」と述べましたが、実際には、琉球政府が住民と米軍、日本政府の板ばさみで調整に苦しむことも多くありました。琉球政府は専門家による調査を委託して安全を立証しようと努めましたが、一部の住民から「米軍の側に立って説得にきたのか」と非難を受けました。
41. 米軍の作業ミスに抗議する住民 この日午前8時頃、船積み作業中の毒ガス兵器が12メートルの高さから落下し、現場は緊張した。ガスの漏洩はなく、約30分後に作業は再開された。 |
42. 移送トラックの通過を確認する琉球政府職員 |
43. 天願桟橋近くに米軍が設置した報道センター |
44. 移送ルート沿道市町村への補償について覚書を交わす屋良行政主席 |
45. 毒ガス兵器移送問題に関する調査団 日本政府が調査団を派遣するいっぽう、琉球政府は、米軍側が主張する「安全」を検証し対策を講じるため、独自で専門家に調査を委託した。記者会見する調査団。 |
53. 移送の際の万一の事故に備えて風向きなどをチェックする琉球政府職員 |
79. 沖縄における毒ガス剤兵器移送計画”レッド・ハット”作戦に関する調査研究報告 原水爆禁止日本国民会議 第1次移送の際、日本政府は安全面の点検の目的で専門家5人を派遣した。琉球政府は、不信感を持つ住民の要望を考慮し、独自に人選して調査を委託した。第2次移送にあたっては、この調査団のメンバーによる報告書をもとに、安全対策を講じた。 |
94. 毒ガス撤去安全対策-第2次分- 安全対策の徹底は、第2次移送の住民合意を得るための必須条件だった。琉球政府はすべて地元の科学者・技術者21人から成る専門家調査団を任命し、米軍と討議を重ねて、最終的な安全対策要綱を作成した。 |
95. レッド・ハット作戦 特別安全対策要綱 アメリカ陸軍が作成した移送の手順書。 |
96. 補償要請書 第2次毒ガス移送 医療関係 池原支部引継事項 |
97. 補償要請書 第2次毒ガス移送 具志川市昆布 移送ルート沿道の住民から、休業補償や慰謝料の要求が相次いだ。琉球政府はのちに米軍に請求するべく、個別に補償額を調査算定した。避難生活などのストレスで早産した女性や、不慣れな環境で衰弱したお年寄りなどといった健康面だけでなく、家畜への悪影響の多数の例が報告された。 |
98. 第2次毒ガス移送にかかる損失補償陳情 移送コースとなった地区の代表は、補償を求めて上京し要請活動をした。「あのおそろしい大量殺りく兵器である毒ガスの沖縄からの早期撤去を全県民的運動として認め平和な、安心して生活の出来る沖縄にしたいということを念じながらも、我々一部移送コース沿道の農民、中小企業者がその犠牲に供され、その補償すらももらえない」と述べ、日本復帰前の解決を望んだ。稲嶺一郎参議院議員(当時)が保管していた資料。 |
99. 毒ガス撤去対策費について 毒ガス兵器移送に要した経費を琉球政府がまとめたもの。総額72万2,404ドル19セントの内訳がわかる。ちなみに1971年度(昭和46)の琉球政府総務局本局費はおよそ350万ドルだった。これらの支出は、毒ガス兵器を持ち込んだ米軍でなく、日本政府が負担した。 |
102. 毒ガス総退室からの引継文書 琉球政府は、毒ガス兵器移送に対処するため、毒ガス総合対策室を設置、本部長に行政主席、副本部長に行政副主席、本部員は各局長および警察本部長と、政府挙げての布陣となった。1971年(昭和46)4月1日、に渉外広報部渉外課に所管が移り、その際に当時の資料がコンパクトにファイリングされて引き継がれたもの。 |
104. 毒ガス撤去対策本部機構図 『文書だより』第9号所収 |
106. 毒ガス撤去安全対策本部 現地本部(支部)の任務 |
107-1. Red Hat Bulletin 79/速報79 |
107-2. Red Hat Bulletin 79/速報79 |
108. News Release / ニュース・リリース 米軍がオペレーション・レッドハットの広報資料として連日配布した印刷物。和英両文がセットになっている。 |
109. Operation Red Hat Press Kit 毒ガス兵器移送に際して、米軍がマスメディアに配布した資料一式。高等弁務官はじめ、オペレーション・レッドハットに関与する軍人らの詳しいプロフィールを添付し、最高のスタッフで臨んでいると強調した。その他、取材時の注意事項メモや、第2次移送用道路の工事状況写真などがセットされた。 |
■戦後から現在 基地被害の歴史
沖縄戦後の米軍基地に関する事件・事故は毒ガス兵器撤去問題だけでなく、婦女暴行事件や宮森小学校米軍機墜落事故、土壌汚染、B52墜落事故など後を絶ちません。日本復帰後の現在もなお発生し続ける米軍基地をめぐる事件・事故は住民の生活を脅かしています。
46. 小学生死亡事故の現場に立つ松岡行政主席 女児は米軍が吊り下げ訓練中に落下した小型トラックの下敷きとなった。 |
47. 嘉手納村屋良区の土壌汚染現場視察 米軍基地からの燃料が浸出したぞ地面は、着火すると燃え上がった。 |
48. 嘉手納村屋良区の土壌汚染現場視察 「燃える井戸」で説明を受ける松岡行政主席。 |
49. 完成した防音教室を視察 松岡主席は、嘉手納村の学校の教室を防音化する財源を米軍に要求し、支出させた。 |
110-1. B52核戦略爆撃機の墜落爆発事故に対する抗議と核兵器即時撤去を要求する決議 嘉手納村全婦人大会 |
110-2. B52核戦略爆撃機の墜落爆発事故に対する抗議と核兵器即時撤去を要求する決議 嘉手納村全婦人大会 |
110-3. B52核戦略爆撃機の墜落爆発事故に対する抗議と核兵器即時撤去を要求する決議 嘉手納村全婦人大会 |
111. 学校の防音装置に関する協約 署名人は琉球列島米国民政府民政官 ゼラルド・ワーナーと琉球政府行政主席 松岡政保。松岡の主席在任期間である1964年(昭和39)から1968年(昭和43)の間に、アメリカはベトナム戦争の泥沼にはまり込んだ。在沖米軍基地からの出撃が激化し、往来する米兵の精神状態はいっそうすさんで、悪質な事件事故が続出した。 |
112-1. 基地被害関係資料 宮森小学校米軍機墜落事故関係 1959年(昭和34)6月30日、米軍ジェット機が昼休み中の学校に突入して、児童たちを焼死させる悲惨な事故が発生した。一方、パイロットの米兵は機体から脱出して生命に別条はなかった。被害者遺族への補償の実施が難航し、関係者が上京して日本政府や在日米軍に要請することになった。その便宜を図ってくれるよう、琉球政府立法院事務局長・稲嶺成珍が、南方同胞援護会事務局長・吉田嗣延あてに送った文書である。この事故は、いまもなお遺族や地域社会に影を落とす。 |
112-2. 基地被害関係資料 宮森小学校米軍機墜落事故関係 |
113. 講和発効前保証金支払現金領収書 国頭村 講和前補償とは、1945年(昭和20)8月16日から1952年(昭和27)4月27日までの間になされた米国軍隊要員による不法行為に対する損害賠償のこと。アメリカは補償の法的義務はないとしながらも、1965年(昭和40)から一定の支払いを始めた。琉球政府文書に残る支払い記録には、土地接収などの財産権だけでなく、生命や身体の安全を侵害した事例も多い。この資料は、1946年(昭和21)に低空飛行の米軍機が海岸で遊んでいた子を車輪で引きずって死亡させたケースである。軍事占領下開始直後の異常な日常を示唆する。 |
114-1. 陳情書 1948年(昭和23)8月6日、伊江島の波止場で米軍の弾薬輸送船(LCT1141)が爆発し、死者107人、負傷者70人の大惨事となった。港には地元の連絡船が入港して多くの人が出迎えに来ていた。この陳情書は、息子を失って生活に困窮する母が、米軍への補償要求書に添付したもの。 |
114-2. 陳情書 |
116. 米軍人による婦女子強姦事件に対する住民の指導に関する件 |
117. 1946年度における外人の住民に対する犯罪統計表 |
118. 外務委員会質問下書原稿 米兵女子中学生暴行事件について 1975年(昭和50)4月19日に金武で発生した事件について、当時参議院議員だった稲嶺一郎が国会で日本政府の対応を質すために用いた原稿の草案。日本復帰後3年、生命身体を脅かす基地被害は消滅しなかった。 |
119-1. 基地対策に関する要望書 渉外関係主要都道府県知事連絡協議会 沖縄だけでなく、他の地方公共団体にとっても、米軍基地の整理、縮小、移設と早期返還の促進および基地跡地の地元優先の公共利用は、第一の要望だった。 |
119-2. 基地対策に関する要望書 渉外関係主要都道府県知事連絡協議会 |
120. 沖縄県条例制定請求者署名簿 |
—1996年(平成8)の県民投票
1996年(平成8)9月8日、沖縄県は、県レベルで全国初となる住民投票「日米地位協定の見直し及び基地の整理縮小に関する県民投票」を実施しました。
その背景には、前年9月の米兵による少女暴行事件を契機として、米軍基地の整理・縮小への民意が新たに高まっていたことがあります。
投票方法は「米軍基地の整理・縮小」と「日米地位協定の見直し」に「賛成」「反対」のいずれかに〇を付けるもので、最終開票結果は、投票総数54万1,638票(投票率59.53%)、賛成票48万2,538票、反対票4万6,232票(無効票1万2,856票)で、89%が基地の整理縮小に賛成の意を示しました。これは当時の全有権者数90万9,832人の53%にあたる数字です。これらの資料は、沖縄県知事公室基地対策課から当館へ引き渡されました。
121. 県民投票実施関係 県民投票、投・開票関係諸様式類 |
122. 県民投票ステッカー |
123. 県民投票チラシ |
124. 県民投票の記録 |
番号 | 展示資料件名 | 日付 | 出処情報 | 閲覧用資料 コード等 |
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■1969年-空にB52、海に原潜、陸に毒ガス | ||||
1 | 琉球政府とアメリカの放射能汚染合同調査 | 1968年6月 | 琉球政府関係写真108 | 030268 |
2 | B52即時撤去を求めるデモ | 1968年11月 | 琉球政府関係写真098 | 027568 |
4 | 2.4統一行動集会 嘉手納村総合グラウンド | 1969年2月4日 | 琉球政府関係写真117 | 032828 |
54 | B52 戦略爆撃機の墜落事件に対する抗議と同機の即時撤去を要求する決議 | 1968年12月23日 | 琉球政府立法院 | RDAE006285 |
55 | ビラ 原水爆を禁止し人類に平和を! 原水爆禁止沖縄県協議会 | - | 沖縄県祖国復帰協議会 | R10001213B |
58 | B52撤去・原潜寄港阻止県民共闘会議(別称 生命を守る県民共闘)(仮称)結成要項 | - | 沖縄県祖国復帰協議会 | R10000561B |
59 | B52即時撤去原潜寄港阻止に関する要請 B52撤去・原潜寄港阻止県民共斗会議(別称 生命を守る県民共斗) | 1968年11月26日 | 沖縄県祖国復帰協議会 | R10000150B |
60 | ビラ 殺人機B52を即時撤去せよ 生命を守る県民共斗 | - | 沖縄県祖国復帰協議会 | R10000856B |
■恐怖の神経ガス兵器 | ||||
6 | 毒ガス撤去要求、アメリカのカンボジア侵略反対県民総決起大会 | 1970年5月23日 | 琉球政府関係写真129 | 036171 |
7 | 前原高校生刺傷事件県民抗議大会に参加する高校生たち | 1970年6月 | 琉球政府関係写真130 | 036459 |
10 | 知花弾薬庫で働く女性 | 1969年2月 | 米陸軍通信隊写真6 | 18-56-2 |
11 | 米軍が知花弾薬庫に保管していた毒ガス兵器 | 1971年1月 | 米陸軍通信隊写真7 | 19-08-2 |
57 | ビラ 県民の皆さん 私たちは核兵器を枕にして生活しているのです B52撤去・原潜寄港阻止県民共闘会議(別称 生命を守る県民共闘) | - | 沖縄県祖国復帰協議会 | R10001214B |
62 | 宣言 草案 いのちを守る県民大会 | 1969年2月4日 | 沖縄県祖国復帰協議会 | R10000328B |
63 | Nerve Gas Accident by Robert Keatley [THE WALL STREET JOURNAL Friday, July 18, 1969] | 1969年7月18日刊 | E. フライマス文書 | 0000024732 |
64 | 和訳 ウォールストリートジャーナル紙掲載記事 神経ガス事故 | 1969年7月18日付 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE007945 |
66 | 毒ガス兵器の撤去を要求する決議 | 1969年7月22日 | 琉球政府立法院 | RDAE006285 |
67 | 毒ガス兵器の即時撤去を要求する県民大会 | 1969年7月29日 | 沖縄県祖国復帰協議会 | R10000781B |
68 | 県民大会開催について 沖縄県祖国復帰協議会原議 | 1969年7月23日 | 沖縄県祖国復帰協議会 | R10000410B |
70 | ビラ 人類絶滅の毒ガス兵器を直ちに撤去させよう!! | 1969年7月29日 | 沖縄県祖国復帰協議会 | R10001213B |
71 | ビラ 県民のみなさんに訴える 五日間にわたる長期スト突入に当って 全沖縄軍労働組合 | 日付なし | 沖縄県祖国復帰協議会 | R10000857B |
73 | 米軍人による女子高校生刺傷事件等に関する抗議決議 | 1970年6月6日 | 琉球政府立法院 | RDAE006285 |
■軍事基地の矛盾 | ||||
13 | 3千名の解雇撤回要求 全軍労48時間ストライキ | 1971年2月 | 琉球政府関係写真134 | 037758 |
14 | 全軍労 48時間ストライキ 不当解雇撤回要求 | 1970年9月10日 | 琉球政府関係写真131 | 036959 |
15 | 国頭村の米軍演習場を視察する屋良行政主席 | 1971年1月5日 | 琉球政府関係写真134 | 037800 |
16 | 3千名の解雇撤回要求 全軍労48時間ストライキ | 1971年2月11日 | 琉球政府関係写真134 | 037748 |
■1971年1月13日 第1次移送 | ||||
18 | 毒ガス兵器をトラックに載せる米兵 知花弾薬庫 | 1971年1月 | 米陸軍通信隊写真6 | 18-62-4 |
19 | 防護服を着て、毒ガス移送に臨む米兵 知花弾薬庫 | 1971年1月 | 米陸軍通信隊写真7 | 19-06-3 |
21 | 毒ガスのギセイはごめんだ | 1971年1月 | 米陸軍通信隊写真7 | 19-09-2 |
22 | 集落内を走り抜ける、毒ガス兵器を積んだトラック | 1971年1月 | 琉球政府関係写真134 | 037624 |
23 | 第1次移送終了後に会見する琉米の幹部たち | 1971年1月13日 | 琉球政府関係写真134 | 037601 |
24 | 毒ガス移送の際の事故を想定した訓練 | 1971年5月 | 琉球政府関係写真136 | 038246 |
74 | 沖縄の毒ガス撤去(米側説明等) アメリカ局北米第一課 | 1970年12月18日付 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE007969 |
125 | 屋良朝苗日誌 | 1970年12月21日 | 読谷村教育委員会所蔵 | 0000099338 |
76 | 高等弁務官発陸軍省宛 高等弁務官 行政主席 会談記録 | 1970年12月21日 | USCAR渉外局文書 | U81100953B |
77 | 毒ガス輸送経路略図 第1次 | 1971年 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE007915 |
78 | 第1次毒ガス移送対策に関する総括 | 1971年2月5日 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE001497 |
80 | ビラ 県民の総力を返還協定粉砕 5.19ゼネストへ‼ | 1971年5月 | 沖縄県祖国復帰協議会 | R10001213B |
81 | 米軍人による婦女子暴行事件等に関する抗議決議書 コザ市議会 | 1971年5月26日 | 琉球政府文書 | 0000140604 |
■1971年7月15日~9月9日 第2次移送 | ||||
25 | 第2次移送に備えて知花弾薬庫内に集積するトレーラー | 1971年7月12日 | 米陸軍通信隊写真7 | 19-14-3 |
26 | 第2次移送始まる | 1971年7月19日 | 琉球政府関係写真138 | 038776 |
29 | 夏休み中の学校で避難生活を送る | 1971年8月 | 琉球政府関係写真139 | 039031 |
31 | 避難所となった川崎小学校 机の上に寝かされる乳児ら | 1971年8月 | 琉球政府関係写真139 | 039169 |
32 | 米軍が手配した避難用バスに乗り込む住民 | 1971年8月 | 琉球政府関係写真139 | 039029 |
65 | 毒ガスについて-24の質問に答える- | 1971年5月 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE001513 |
■地域社会を揺るがすレッド・ハット作戦 | ||||
33 | 集落を連なって通過する移送車 | 1971年1月 | 米陸軍通信隊写真7 | 19-05-3 |
34 | 天願桟橋を行くトラック | 1971年9月 | 米陸軍通信隊写真8 | 19-31-1 |
35 | 移送ルートにあたる美里村の住民に説明する屋良行政主席 | 1971年1月 | 琉球政府関係写真134 | 037565 |
36 | 移送を見守る石川市議会議員たち | 1971年7月19日 | 琉球政府関係写真138 | 038796 |
37 | 具志川・天願桟橋に停泊する毒ガス兵器移送船 | 1971年7月24日 | 琉球政府関係写真138 | 038891 |
38 | 毒ガス移送最終日 移送船を見送る | 1971年9月9日 | 琉球政府関係写真140 | 039337 |
39 | B52飛来抗議村民総決起大会に参加する住民 嘉手納村 | 1972年10月28日 | 琉球政府関係写真221 | 060033 |
40 | 嘉手納基地に再飛来したB52の一群 | 1972年10月 | 沖縄県関係写真001 | 070139 |
50 | 毒ガス撤去対策池原支部 | 1971年8月 | 琉球政府関係写真139 | 039055 |
51 | 毒ガス撤去対策昆布支部 | 1971年8月 | 琉球政府関係写真139 | 018677 |
52 | 毒ガス撤去対策美原支部 | 1971年8月 | 琉球政府関係写真139 | 039055 |
82 | 米軍の毒ガス撤去移送に関しての要請 命を守る校区民総決起大会 | 1971年1月7日 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE007915 |
83 | ポスター 毒ガス・B52撤去 安保廃棄・基地撤去 県民総決起大会 6月22日 普天間小学校 | 1970年 | 沖縄県祖国復帰協議会 | R10000856B |
84 | 具志川市字昆布区民大会決議文 | 1971年6月18日 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE001499 |
85 | 第2次移送経路案 比較図 | 1971年 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE001505 |
86 | 移送コース案の長短 | 1971年 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE001505 |
87 | 毒ガス撤去具志川市説明会 | 1971年5月13日 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE007917 |
88 | 毒ガス昆布区説明会々議録 | 1971年5月17日 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE007917 |
89 | 書簡 PANG: PEOPLE AGAINST NERVE GAS発 屋良朝苗行政主席宛 | 1970年4月19日 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE007949 |
90 | 琉球政府による日本語訳 | 1970年4月19日 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE001527 |
91 | 神経ガスの措置に関する米国二団体の要請に対する声明について | 1970年5月12日 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE007919 |
92 | 毒ガス撤去移送実績表 | 1971年 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE007935 |
■毒ガス移送と琉球政府 | ||||
41 | 米軍の作業ミスに抗議する住民 | 1971年8月25日 | 琉球政府関係写真140 | 039392 |
42 | 移送トラックの通過を確認する琉球政府職員 | 1971年8月 | 琉球政府関係写真139 | 039063 |
43 | 天願桟橋近くに米軍が設置した報道センター | 1971年8月 | 琉球政府関係写真139 | 038969 |
44 | 移送ルート沿道市町村への補償について覚書を交わす屋良行政主席 | 1971年7月 | 琉球政府関係写真138 | 038877 |
45 | 毒ガス兵器移送問題に関する調査団 | 1971年1月 | 琉球政府関係写真134 | 037606 |
53 | 移送の際の万一の事故に備えて風向きなどをチェックする琉球政府職員 | 1971年 | 琉球政府関係写真140 | 039298 |
79 | 沖縄における毒ガス剤兵器移送計画“レッド・ハット”作戦に関する調査研究報告 原水爆禁止日本国民会議 | 1971年3月1日 | 原水爆禁止日本国民会議 | 0000088201 |
94 | 毒ガス撤去安全対策-第2次分- | 1971年6月10日 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE001499 |
95 | レッド・ハット作戦 特別安全対策要綱 | 1971年 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE001539 |
96 | 補償要請書 第2次毒ガス移送 医療関係 池原支部引継事項 | 1971年 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | R00004862B |
97 | 補償要請書 第2次毒ガス移送 具志川市昆布 | 1971年 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE007957 |
98 | 第2次毒ガス移送にかかる損失補償方陳情 | 1972年 | 稲嶺一郎文書 | 0000031171 |
99 | 毒ガス撤去対策費について | 1971年12月 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE007955 |
102 | 毒ガス総対室からの引継文書 | 1971年 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE001533 |
104 | 毒ガス撤去対策本部機構図 『文書だより』第9号所収 | 1971年9月1日付掲載 | 琉球政府総務局 | G80003258B |
106 | 毒ガス撤去安全対策本部 現地本部(支部)の任務 | 1971年7月5日 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE007915 |
107 | Red Hat Bulletin 79/速報79 | 1971年8月25日 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE007969 |
108 | News Release / ニュース・リリース | 1971年8月31日 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE007969 |
109 | Operation Red Hat Press Kit | 1971年 | 琉球政府毒ガス撤去対策本部 | RDAE001541 |
■戦後から現在 基地被害の歴史 | ||||
46 | 小学生死亡事故の現場に立つ松岡行政主席 | 1965年6月12日 | 琉球政府関係写真059 | 016667 |
47 | 嘉手納村屋良区の土壌汚染現場視察 | 1967年11月4日 | 琉球政府関係写真091 | 025566 |
48 | 嘉手納村屋良区の土壌汚染現場視察 | 1967年11月4日 | 琉球政府関係写真091 | 025564 |
49 | 完成した防音教室を視察 | 1965年5月 | 琉球政府関係写真066 | 018677 |
110 | B52核戦略爆撃機の墜落爆発事故に対する抗議と核兵器即時撤去を要求する決議 嘉手納村全婦人大会 | 1968年11月30日 | 沖縄県祖国復帰協議会 | R10000560B |
111 | 学校の防音装置に関する協約 | 1966年3月9日 | 琉球政府文書 | RDAE001341 |
112 | 基地被害関係資料 宮森小学校米軍機墜落事故関係 | 1960年9月12日 | 吉田嗣延文書 | 0000095049 |
113 | 講和発効前補償金支払現金領収証 国頭村 | 1967年 | 琉球政府文書 | R00031291B |
114 | 陳情書 | 1957年11月15日 | 琉球政府文書 | R00165590B |
116 | 米軍人による婦女子強姦事件に対する住民の指導に関する件 | 1947年3月27日 | 琉球政府文書 | RDAE000105 |
117 | 1946年度における外人の住民に対する犯罪統計表 | ー | 琉球政府文書 | RDAE000105 |
118 | 外務委員会質問下書原稿 米兵女子中学生暴行事件について | 1975年4月24日 | 稲嶺一郎文書 | 0000032705 |
119 | 基地対策に関する要望書 渉外関係主要都道県知事連絡協議会 | 1982年7月 | 稲嶺一郎文書 | 0000031049 |
120 | 沖縄県条例制定請求者署名簿 | 1996年 | 沖縄県知事公室基地対策課 | 0000126149 |
—1996年(平成8)の県民投票 | ||||
121 | 県民投票実施関係 県民投票、投・開票関係諸様式類 | 1996年 | 沖縄県知事公室基地対策課 | 0000126227 |
122 | 県民投票ステッカー | 1996年 | 沖縄県知事公室基地対策課 | 0000126271 |
123 | 県民投票チラシ | 1996年 | 沖縄県知事公室基地対策課 | 0000126231 |
124 | 県民投票の記録 | 1997年2月 | 沖縄県知事公室基地対策課 | G00019021B |