写真展「USCARの時代」第4回
戦後復興とガリオア援助
戦争で多くを失った住民の生活は、米軍からの無償配給や、物々交換などで細々と成り立っていました。1947年(昭和22)、米国政府は、沖縄における飢餓や疾病の拡大を阻止するため、食料品などの救済援助を開始します。これは、ガリオア援助(GARIOA: Government and Relief in Occupied Areas Fund=占領地域救済政府資金)と呼ばれました。開始当時は、食糧援助が中心でしたが、米国の沖縄統治の方針転換に伴って、額は増大し、経済援助へと性格が変わっていきます。
1949年(昭和24)からは、エロア援助(EROA: Economic Rehabilitation in Occupied Area=占領地域経済復興資金)が導入され、巨大な公共投資が行われました。電力や水道施設、道路が建設され、軍民共用ながら、社会インフラが整備されました。また、琉球銀行の創設を皮切りに、陸・海運、水産、食糧、石油、保険など各産業分野にわたる企業が次々と立ち上がり、経済復興の土台が作られました。ソフト面では、米国留学を通じての人材育成が積極的に行われました。沖縄へのガリオア・エロア援助は、1957年(昭和32)年まで続き、援助総額は2億8940万ドルに上りました。
1.立ち上がる企業~戦後経済黎明期~
1946年(昭和21)4月、戦後約1年間停止していた貨幣経済が復活し、沖縄は米軍が発行したB円軍票を法定通貨として経済復興へ動き出します。1948年(昭和23)5月、米軍が51%出資し、米国軍政府布令に基づく特殊銀行として琉球銀行が設立されました。 同年11月、価格統制を受けない売買取引を可能とする「自由企業制度」が認可されると、様々な企業が立ち上がります。ガリオア援助による日本から輸入したトラックで民間貨物輸送が始まり、海上では貨客船や大型漁船が波を切りました。国際通りにはビル、レストラン、劇場などが軒を連ね、その復興ぶりから「奇跡の1マイル」と呼ばれました。
軍政府布令第1号 琉球銀行の設立 1948年5月 [0000156696]
琉球海運株式会社
1951年(昭和26)にガリオア援助で自社船5隻を購入しました。写真はその中の1隻、若葉丸に乗船した人々です。1954年 [057606]
沖縄食糧株式会社
戦後は法規制により日本から米が輸入できず、海外からの輸入米が県民の食卓を支えました。
ビルマでの検米、検量『沖縄食糧50年史』より[0000072361]
琉球石油株式会社
石油缶が積み上げられた那覇ターミナル全景
『琉球石油株式会社創立5周年記念』より [0000023584]
琉球水産研究所
(現・県水産海洋技術センター) ガリオア資金で建造漁船65隻を配船し、水産業の発展を支えました。写真は水産物の標本 1961年 [047859]
那覇 国際通り 大越百貨店前 1960年[045624]
2.人材育成~ゴールデンゲートをくぐって~
1949年(昭和24)、ガリオア資金による米国留学制度がスタートしました。後続の奨学金制度も含めて、1970年(昭和45)までの間に、1千人あまりが渡米し、博士号取得者28名,修士号262名,学士号155名という成果を残しました。また、1952年(昭和27)には、アメリカ留学体験者は、親睦団体として「金門クラブ(Golden Gate Club)を結成しました。サンフランシスコの金門橋をくぐって上陸したことが名前の由来です。クラブの会員は多彩な顔ぶれで、琉球開発金融公社(現・沖縄振興開発金融公庫)総裁の宝村信雄氏、元県知事の大田昌秀氏、沖縄放送協会初代会長の川平朝清氏、元副知事の比嘉幹郎氏、尚弘子氏、牧野浩隆氏など、戦後沖縄の指導的役割を担う人材を多く輩出しました。
1958年度ガリオア留学生の出発、那覇港より出発 USNSバーネット船上デッキにて 那覇市 1958年7月
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米国より帰ったガリオア留学生、那覇港にて 1958年8月1日 [260CR-04_0027-01]
米領事館で金門クラブのガーデンパーティー 那覇市 1960年12月10日[260CR-40_0241-01]
琉球列島米国民政府ジョン・G・アンドリック民政官(左)は、先週琉球政府行政副主席に任命された瀬長浩氏の後任として、琉球開発金融公社総裁として宝村信雄を任命し祝福した。宝村氏は1957年、ペンシルベニア大学ウォートン・スクール・オブ・ファイナンス・アンド・コマースで修士を獲得し、1952年から琉球銀行で経済研究に積極的に取り組み、米国陸軍省が奨学金を支給し米国へ留学した琉球人学生出身者ら約300人で構成された金門クラブの会長を務めた。(USCAR作成キャプションより) 1959年11月2日 [260CR-30_0469-01]
3.見返資金~USCARの収益源~
1946年(昭和21)7月、経済活動と賃金制度再開に伴って米国からの援助物資も有償となりました。その売却価格は米軍によって決められており、かつ現金(B円)で売却しなくてはならないという条件がつけられていました。沖縄民政府の知事らは、住民へ売却して得た売上高の数パーセントを経営運営費として受け取り、残りは毎月一回、軍政府財務局の口座に振り込むよう指示されました。これは軍政府の収入となり、「見返資金」と呼ばれました。1950年(昭和25)、USCARが軍政府を引き継ぐと、USCARの特別会計となり、自ら出資して設立した琉球銀行に預けて管理しました。こうしてガリオア援助をもとに貯蓄された物資売上金は、USCARの重要な財源の一つになり、「一般資金」と呼ばれました。USCARはこれらの資金をもとに、様々な事業を展開しました。USCARの一機関として設立した琉球電力公社、琉球水道公社、ならびに石油販売等の油脂関連事業による収益は、復興が進むにつれて増大し、一般資金の大半を占めるようになりました。
1959年(昭和34)、USCAR一般資金の一部から、市町村へ対して交付する「高等弁務官資金」が設立されました。高等弁務官資金の交付は、1960年代前半は集落の水道施設の整備、1966年(昭和41)以降は公民館建設事業が大きな割合を占めました。交付は、高等弁務官の裁量によって決定されました。琉球政府の会計を経由せずに、直接市町村に影響を及ぼすことができるため、軍事基地保持のための住民融和策としての性格を備えていました。
琉球水道公社、那覇市と用水供給契約を結ぶ 1962年 7月 3日 琉球水道公社総裁室での契約の様子 ウィリアム・A・ケリー民政官補佐官兼琉球水道公社総裁(左)と西銘順治那覇市長(右)(USCAR作成キャプションより) [30-24-3]
油脂関連事業は、民営とは名ばかりで、軍の方針が大きく関与し、末端価格から利益率までUSCARが決定する「間接管理販売」でした。USCARはガソリンや重油など油脂類の輸入販売を独占し、琉球石油を通じて民間へ販売した差額分を基金として積み立てました。様々なマージンが課せられ、最終的に一般消費者が購入する石油価格は米軍用価格の5倍以上となりました。
『琉球石油社史 35年のあゆみ』より[T00006042B]
4.USCAR公社買取問題~援助は贈与?債務?~
沖縄の施政権返還をめぐる日米交渉の中で、沖縄の資産は日本政府が買い取ることになりました。交渉も大詰めとなった、1971年(昭和46)、電力、水道、開発金融のUSCAR3公社をめぐる問題が勃発します。3公社については既に日米間で買い取り合意がされていましたが、もともと琉球政府や沖縄選出国会議員団は、無償引継ぎを主張していました。理由は、3公社にはこれまで県民が支払ってきた代金が建設費用に加わっているほか、一般資金からの貸し付けもされているため、すでに県民は代金を支払った状況にあり、復帰で日本政府が有償で買い取る事は県民にとって費用の二重払いになるということからでした。また、日本本土とは違って、アメリカが施政権を持つ沖縄のガリオア・エロア援助は米側の義務的な統治費用であるとして、買い取りへの根強い反対意見は日本政府野党からもありました。この問題の根底には、ガリオア・エロア援助が債務か、贈与かをめぐる占領者と被占領者側の認識の違いもありました。
しかし、米国側は「ガリオア・エロア援助ぐるみの有償引き渡し」方針をあくまでも譲らず、日本政府は米国と沖縄の板挟みとなりました。結局、復帰の際日本政府が資産引継ぎの代金を「特別支出金」として米国政府へ支払う形で資産買取問題は決着しました。