沖縄県公文書館 > 米国収集資料 > 写真展「USCARの時代」第5回

米国収集資料

写真展「USCARの時代」第5回

USCARのアキレス腱と「島ぐるみ闘争」①

琉球立法院と琉球裁判所

 民主主義を標榜する米国は、施政権を持つ沖縄に琉球政府を置き、立法、行政、司法の三権分立制度をしきました。そして様々な施策で飾った沖縄統治の様子を「民主主義のショーウインドー」と称し、宣伝しました。しかし実態は、あらゆることがUSCARの制約下にあり、軍の司令官が最終的な決定権を握る植民地的な法制が敷かれていました。恒久的基地建設が本格化し、土地の強制接収と、劣悪な環境での軍作業などが県民を苦しめました。米軍による事件事故が起きても、県民を守る憲法はなく、基本的人権がないがしろにされる状況でした。県民の不満は高まり、日本には導入されていた戦後民主主義と平和憲法を渇望しました。怒れる県民の民意反映の場として機能したのは、琉球立法院と琉球裁判所でした。USCARが自らもたらした三権分立は、盤石に思われた統治体制を揺るがすアキレス腱となりました。

 

1.琉球立法院~自治権獲得を求めて~

 1952年(昭和27)、琉球立法院が設置されました。USCARの制約がありながらも、自らの代表を選ぶ道が開かれた県民は、すぐにその権利を行使しました。4月1日に開会した第1回議会では、選ばれた議員たちは党派を超えて「施政権返還決議」を採択しました。「日本国民としての教育」という文言を入れた「教育基本法」も、高等弁務官が2回も拒否したにも関わらず、1958年(昭和33)、当時高まっていた島ぐるみ闘争のうねりを受けて制定されました。また、1968年(昭和43)にはこれまで高等弁務官の任命制だった琉球政府主席の公選が実現しました。県民の悲願である祖国復帰につながる大きなステップでした。

 

琉球政府立法院議員 新琉球政府に立法院議員就任 1953年3月12日 [260CR-09_0001-01]

 

 

那覇における第5回立法院議員総選挙  1960年11月13日[260CR-11_0013-01]

 

 

2.教育基本法~民主主義理念を「密輸入」~

 1946年(昭和21)11月3日、日本本土では新憲法が公布され、翌年3月31日には教育基本法が制定されました。4月1日には6・3・3制の新学制も発足し、戦後民主主義の理念を盛り込んだ新しい教育体制がスタートしました。
 一方、軍政府下で情報も物流も厳しく統制されていた沖縄で、6・3・3学制を最も早く取り入れたのは宮古島でした。戦後の沖縄は4群島に行政分離され、それぞれ独自に施策を講じなければなりませんでした。米国の教育を強制されるか、日本の教育を守り抜くかの瀬戸際であるという緊迫感の中、各民政府の職員らは必死で日本の新教育法の情報を求めました。

 当時の宮古民政府文教部長の砂川恵敷氏が目をつけたのは、宮古島測候所(現・宮古島気象台)でした。戦時中の測候所は、本土からの特攻隊が沖縄に向けて出撃する際に必要な気象データを取得するため、日本政府が管轄していました。そして戦後も島内で唯一、日本政府が管轄していた場所でした。その測候所へ必要物資を運ぶため、東京ー宮古間を船が年4往復していました。砂川氏はその船員に頼み込み、日本から新教育法の資料を「密輸入」してもらうことに成功しました。これらを手掛かりに、新法案、新学制の準備に取り掛かり、米軍政府の許可を得て、1948年(昭和23)4月1日、全県で初めて新教育基本法の理念を取り込んだ宮古教育基本法および6・3・3制を実施しました。本土から遅れることわずか1年でした。石垣島でも同様に石垣島測候所の船を利用する方法で、1949年(昭和24)、4月1日八重山教育基本法及び学校教育法が施行されました。しかし、いずれの教育法でも、軍政府の許可を得やすくするため「日本国憲法」などの記述部分が削除されました。

 地上戦による荒廃と米軍の規制が厳しかった沖縄本島では、教育法の導入も影響を受けました。立法院は、新教育法制定を求める法案を1956年(昭和31)1月と4月の2回提出しましたが、いずれも「日本国民として」という文言に難色を示した高等弁務官の不承認で廃案になりました。
 しかし、「復興は教育から」の思いを一つに、1957年(昭和32)9月、立法院は3度目となる同法案を満場一致で可決し、USCARへ提出します。1956年(昭和31)のプライス勧告が起爆剤となり、島ぐるみで燃え広がった土地闘争や那覇市長選挙をめぐる民主主義擁護の闘い、祖国復帰を求める民衆意識という政治状況に押されるかたちで、1958年(昭和33)1月、USCARは法案をやむなく承認しました。この運動を推進した主要な担い手は屋良朝苗氏(のちの公選主席、初代県知事)を代表とする教職員でしたが、島ぐるみ土地闘争や、復帰運動と結びついたことが大きな力となりました。

 

宮古地方庁開庁式
中央、祝辞を述べる砂川恵敷地方庁長 宮古平良市 1952年11月30日[260CR-40_0160-01]

 

沖縄本島において1958年1月に交付された「日本国民として」の文言が入った教育基本法[0000156257]

 

 

3.施政権返還と主席公選要求

 1959年(昭和34)6月30日、石川市宮森小学校に米軍ジェット機が墜落し、死者17人、負傷者210人を出す大惨事となりました。立法院は事件・事故に対し、抗議決議を行い、県民の反基地の運動は一層高まります。日本でも安保闘争が繰り広げられる中、1960年(昭和35)県祖国復帰協議会(復帰協)が結成されました。立法院も「祖国復帰決議」を何度も採択し、県民の意思を表明します。1962年(昭和37)2月1日、議決された「施政権返還要求に関する決議案」は日米両政府、国際連合の全加盟国政府あてに送付されました。植民地主義に反対し、沖縄の権利を世界に訴えるものでした。施政権返還決議は第1回議会から、日米共同声明で沖縄返還が決まった1969年(昭和44)の第41回議会までに18回採択されました。自治権拡大を求める県民の声は、1968年(昭和43)ついにUSCARから主席公選の実施を引き出しました。

 

『日本政府衆参両院への陳情要請書 1962年』[R00156478B]

 

 

 

 

主席公選、自治権獲得県民大会(復帰協主催) 立法院前 各党代表 瀬長亀次郎氏ら 1964年 6月26日[007768]

 

 

主席公選貫徹、間接選挙阻止を訴える集会 立法院横広場  1966年 3月16日[021349]

 

 

第36回定例議会で演説する高等弁務官 那覇市 1968年 2月 1日
 琉球政府立法院議会開会の挨拶をするアンガー高等弁務官。この時、1968年11月に琉球政府主席公選を実施することを述べた。右はサンキー語学副官[33-43-1]

 

 

 

 公選行政主席となった屋良朝苗氏。主席公選は、革新共闘会議が推す屋良朝苗氏と日米両政府の支援を受けた西銘順治氏の争いとなり、沖縄の「即時無条件全面返還」を掲げた屋良氏が3万票あまりの差をつけて当選しました。89・11%という高い投票率でした。『宮城悦二郎写真資料 21』1968年12月12日[0000096832]

 

 

主席就退任 松岡政保前行政主席から屋良朝苗新行政主席へ事務引継 1968年12月 1日 [027518]

 

 

4.労働法と人権~青い目が見た「民政」~

 1950年代に入り「銃剣とブルドーザー」による土地接収の強行で多くの農民が土地から引きはがされ、軍作業などへ従事させられました。あくまでも軍事目的で沖縄を統治していたUSCARは、基地の建設・運営に支障をきたすような労働者からの要求に応えることはなく、その対応が労働運動に火をつけました。USCARはこうした労働運動に、共産党系で復帰運動の急先鋒である人民党が介入していると見て、一層態度を硬化、弾圧路線で挑みました。統治下で、基本的な権利も保障されない県民に光をもたらしたのは、海外および日本のマスメディア報道でした。

 基本的人権と労働組合 ~ボールドウィンと国際自由労連~

 1953年(昭和28)、第一次世界大戦に際し非戦の立場から設立された基本的人権擁護団体、アメリカ自由人権協会の理事長ロジャー・ボールドウィンが、日本自由人権協会へ沖縄の人々の人権調査を依頼し、同協会が実態調査を始めました。その内容は「農地を強制借り上げ、煙草も買えぬ地代」という見出しとともに1955年(昭和30)1月13日付けの朝日新聞で報道され、広範な世論を喚起しました。沖縄政策の改善を求める内外からの世論は沖縄の人々を勇気づけ、沖縄返還実現の原動力となります。
 すべては、オーティス・W・ベルという那覇市在住の牧師が1954年(昭和29)1月、米誌「クリスチャン・センチュリー」に投稿した軍政批判論文をボールドウィンが目にしたことがきっかけでした。

 続く1956年(昭和31)5月、当時世界的な労働組合組織であった国際自由労働組合総連盟(国際自由労連)の調査団が、10日間にわたり沖縄の実態調査を実施しました。国際自由労連は、作成した報告書および勧告書の中で、琉球政府労働局の機能強化の必要性を指摘しました。また、差別賃金除去や労働環境の改善を勧告し、それを受ける形でUSCARは軍職場環境の見直しを始めます。基地労働者自身にも、職場改善の組織が必要との認識が生まれ、それに基づいた労働者たちの動きと、USCARおよび国際自由労連の労働政策の合意によって、1961年(昭和36)7月、全沖縄軍労働組合(現・全駐労沖縄地区本部)が結成されました。全軍労はピーク時の1969年(昭和44)には組合員2万2000人を擁する県下最大の労働組合となりました。労働問題や人権をめぐって行われた立法院での数々の決議はマスメディアに大きく報道され、広い関心を集めるとともに、県民の意識が醸成されていきました。そして、県民悲願の「祖国復帰」への大きな原動力となりました。

 

 

 ボールドウィン氏総合報告書 [0000063913]

 

 

沖縄入りした国際自由労連の調査団を歓迎する県民[T00017338B] 

 

労働に関する声明を発表する高等弁務官 1965年11月12日 上原康助全軍労委員長(中央)、松岡政保行政主席(右)らを招いて米軍第2種被用者の退職金制度の改善を発表するワトソン高等弁務官(左)[45-09-1]

 

 

軍雇用員に対する賃上げ
全軍労、米軍、沖縄地区エクスチェンジの代表者が、7月20日琉球人の予算資金、非予算資金および米軍賃金委員会の従業員の賃上げを発表を受け、行政府ビルの会議室でポーズをとる様子。
1967年7月20日[260CR-11_0269-05]