土地と移民
平成28年10月25日から平成29年5月7日まで、展示室で所蔵資料展「土地と移民」を開催しました。
本展は、沖縄からの海外移民について、戦前と戦後それぞれの「はじまり」に着目しました。戦前の移民は、「沖縄移民の父」と称される當山久三の斡旋により1899年(明治32)にハワイへ向けて出発したのをはじまりとしています。戦後は、呼寄移民として出発した人々がおり、より特徴的なものとしてボリビアへの琉球政府計画移民を挙げることができます。これは沖縄戦で荒廃した社会の復興への助けとして、米国の支援のもとに琉球政府が1954年(昭和29)から実施しました。第6回世界のウチナーンチュ大会を機に、世界に広がる沖縄県人ネットワークが築かれた歴史をたどります。
1 海外移民のはじまり―ハワイ
2 基地に変わった故郷
3 琉球政府計画移民のはじまり―ボリビア
4 戦後移民の広がりー強まる絆
1 海外移民のはじまり―ハワイ
沖縄の農村では土地を共同的に管理していましたが、1899年(明治32)から1903年(明治36)にかけて行われた土地整理事業により個人の土地所有権が確立し、地租納税も村単位から個人に課されるようになりました。土地を売買して移民費用にあてることもできるようになり、また、1898年(明治31)に沖縄の一般県民に徴兵令が施行されて、徴兵忌避のために家の跡継ぎなどの男子を移民させる例も多かったと言われます。
1899年12月5日、沖縄から初めての海外集団移民が、當山久三の斡旋により那覇港から出発しました。沖縄移民は横浜港でチャイナ号に乗船してハワイへ向かい、翌1900年(明治33)1月8日、ホノルル港に到着、オアフ島のサトウキビ耕地で26人が契約移民として働き始めました。
移民たちは、現地の言葉で「ルナ」と呼ばれる監督が厳しく監視する中で重労働に明け暮れました。やがてプランテーション労働で得た資金をもとに、養豚業に転身、または市街地でレストラン経営などのビジネスを始める者も出てきました。
ハワイを皮切りに、移民先は南米、北米へと広がりました。海外移民は沖縄の家族らへの送金を絶やさず、その総額は一時は県歳入の6割以上を占めるほどになって、窮乏する沖縄社会の助けとなりました。
1.『臨時沖縄県土地整理事務局記念帖』より |
2.『沖縄法制史』東京税務監督局 より |
3.移民取扱人との契約書 |
4.『金武名所絵葉書』より 移民翁當山久三氏之銅像 金城写真館(金武) |
5.チャイナ号 |
6.日曜布哇新報 第47号 |
7.日本帝国海外旅券 第八五七四〇号 |
8.當山久三より平良新助あて書簡 |
9.『琉球俗謡』第六巻より 「新兵の出発」 |
10.サトウキビプランテーションでの労働 |
11.海外渡航周施業広告 |
12.布哇島日本人労働同盟会会員証 |
13.琉球語賛美歌 比嘉静観編集 |
14.渡航経費の領収書、精算書 |
14.渡航経費の領収書、精算書 |
15.オリンピック・グリル外観 |
16.盆踊日誌 カハルウ青年会 |
17.ハワイ在住日系移民関係写真集より 家族写真 |
18.『布哇首里市人会拾周年記念誌』より家族写真 |
2 基地に変わった故郷
日米開戦によって、ハワイの沖縄県人たちは両国の板挟みとなって苦しい立場に立たされました。1945年(昭和20)の沖縄戦に米軍の通訳兵として従軍したハワイ移民二世の比嘉太郎トーマスは、戦禍にあえぐ故郷の実情を目の当たりにし、帰国後は米軍の収容所で生活する沖縄住民へ慰問品を送るよう呼びかけるなど、沖縄救済運動に尽力しました。沖縄救援の動きは、ハワイ、北米、南米の沖縄移民社会へ広がりました。
戦後、米統合参謀本部は、沖縄を、アラスカやパナマ、ハワイ、マリアナ、フィリピンなどと同じ「主要基地地域」とし、在沖米軍基地は戦後アメリカの安全保障にとって有数の重要拠点「太平洋の要石ーkeystone」と位置づけました。米軍の占領と基地建設は続き、住民生活の復興は困難をきわめました。農地や宅地が米軍用地として没収されており、収容所を出ても元の居住地に戻れず、生活を再建できない住民が多くいました。
19.米軍撮影空中写真 ON24145、ON24146 |
20.米軍撮影空中写真 ON24656 |
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21.『日布時報』記事 |
22.『ハワイに於ける沖縄被服救済運動の動機とその記録』 |
|
23.『救援ニュース』 第1号 |
24.Hawaii Times より |
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25.『Brasileira Kaiho』 会報 第12号 創刊1周年紀念号 |
26.米軍統合参謀本部文書より |
|
27.牧港飛行場建設現場写真 |
28.ハワイ・ワイルク昭和青年会館で救援物資の荷造りを終えて |
|
29.飛行場内住民立入禁止について |
29.飛行場内住民立入禁止について |
|
30.「北谷村の近況」 |
31.沖縄医療救済連盟の趣意書 「病める同胞を救ふ」 |
3 琉球政府計画移民のはじまり―ボリビア
沖縄戦のあと、大規模な軍用地の接収により農地や宅地などの生活基盤となる土地が減少する一方で、人口は急激に増加しました。1950年(昭和25)に発足した住民側の民政機構である沖縄群島政府は、「沖縄の経済的自立の要因は過剰人口の対策がその基盤となる」との認識から、海外移民を推進する方針を固めました。
米陸軍の委嘱を受けたスタンフォード大学のJ.L.ティグナーは、1951年(昭和26)から52年(昭和27)にかけて南米諸国の沖縄移民の実態を調査しました。ボリビアで現地の沖縄移民たちが同胞受入れのための移住地を確保しようと運動している状況を知り、琉球政府や米軍に対してボリビアへの沖縄移民送出を提言しました。
琉球政府は米軍が支援を約束したボリビア移民の実現に取り組むこととし、移民使節として、琉球海外協会会長の稲嶺一郎と、琉球政府経済局企画室長の瀬長浩を選出しました。移民使節は1953年(昭和28)12月に出発し、南米や北米で折衝にあたった結果、琉球政府計画移民としてボリビアの移住地へ10年間で12,000人の沖縄住民を送出することになりました。1954年(昭和29)には、市町村と琉球政府による2段階選考で決定したボリビア計画移民400人が2陣に分かれて出発しました。第1陣269人は、オランダ船籍のチサダネ号に乗船して那覇港を出発。8月6日にブラジルのサントス港に到着し、陸路でボリビア・サンタクルス州の「うるま移住地」へ向かいました。
沖縄では米軍による軍用地の新規接収が広がり、土地を追われた住民に対して、琉球政府は八重山・大宜味、南米への移住の途を示しました。
32.Agriculture and Economic Reconstruction in the Ryukyus. A Report – Agricultural Mission to the Ryukyus |
33.沖縄群島知事平良辰雄より |
|
34.「移民促進関係」より |
35.『第一次三カ年沖縄振興綜合計画書 沖縄群島政府』より |
|
36.The Okinawans in Latin America: SIRI Report No.7 |
37.『ティグナー報告書 ブラジル編』 |
|
38.海外移民促進大会宣言 |
39.『雄飛』第6号 |
|
40.海外移民促進大会決議案 |
41.ボリビア移民応募に際し宣誓 |
|
42.南米ボリビア農業移民募集要綱 |
43.ボリビア移民資料 09 |
|
44.書簡 稲嶺一郎より |
45.「Price Committee Trip」より |
|
46.『Study of Land Problems in Okinawa prepared by USCAR』 |
47.『土地問題渡米資料 琉球政府企画室編』 より 戦前・戦後の総人口と農家人口 |
|
48.伊佐浜 接収予定地で抗議する人々 |
49.伊佐浜 接収予定地の家屋 |
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50.沖縄の風物写真2-3(2110) 伊佐浜 |
51.伊佐浜部落の海外移住関連資料 |
|
52.ボリビア移民資料 08 移民金庫貸付計画 |
53.「八重山開拓状況」より 移民入植状況 |
|
54.「開拓用地買収及び払下関係」より |
55.八重山移住地で住民と話す大田政作行政主席 |
4 戦後移民の広がりー強まる絆
1954年(昭和29)8月15日に最初のボリビア移民が入った「うるま移住地」は原生林の中にあり、10月末から原因不明の伝染病(うるま病)が発生し、15人の死者を出すほどの猛威をふるいました。水害にも襲われたため、移民たちはこの移住地を放棄して移動を重ね、1956年(昭和31)に定住の地を定めてコロニア・オキナワとしました。
琉球政府は、厳しい環境にあるボリビア移民へ支援を続け、沖縄から現地調査の職員を派遣するだけでなく、現地駐在所を設置して情報収集に努め、さまざまな事務調整にあたらせて、沖縄からの移民の便宜を図りました。その後1969年(昭和44)の第19次移住者まで合計3,229人が琉球政府の計画移民としてボリビアに入り、コロニアは第2、第3と広がりました。 現在ではコロニア・オキナワは大豆の生産で知られる豊かな農産地として発展しています。
琉球政府の移民事業は、日本政府の補助を受けながら、ボリビア以外の国にも広がりました。移住先での生活に困らぬよう、移民希望者は那覇市若狭にあった「移住あっせん所」で、事前研修を受けました。
1958年(昭和33)には、アルゼンチン、ペルー、ボリビア、ブラジルへの移民たちによる「南米移住者連絡会議」が開催されるなど、現地でのネットワークも形成されていきました。琉球政府の松岡政保行政主席は1967年(昭和42)9月20日から10月26日まで1か月にわたって各地の移民地を訪問しました。松岡主席の妻・良子さんは当山久三の姪で、同じく金武出身でハワイ移民経験者である松岡主席とともに、各地で大歓迎を受けました。移民地から集団で沖縄への里帰りツアーも計画されるようになり、現地と沖縄の絆はますます強く結ばれ、世代を超えて交流が続いています。
56.ボリビア 沖縄移住地周辺地図 |
57.南米地図 邦人入植者分布図 |
58.[写真アルバム]4 軍用地関連写真より |
59.第110回南米ブラジル呼寄移住教育修了記念写真 |
60.「琉球政府局別所管事業調査写真1 経済局 |
61.移民船 あるぜんちな丸 |
62.移住地調査に関する書類 ボリビア |
63.『南米移住への道』 |
64.南米移住者募集ポスター |
65.政府移動相談所 第2回 東風平村 |
66.会議録 沖縄からの移住者を日本政府の |
66.会議録 沖縄からの移住者を日本政府の |
67.移住者の教養訓練関係 |
68.ボリビア沖縄移住地の小学生 |
69.南米移住者連絡会議時に開催された |
70.南米移住者連絡会議時に開催された物産展 |
71.ボリビア移住地駐在所関係 |
72.松岡政保行政主席の中南米訪問に関する報告書より コロニア・オキナワにて |
73.松岡政保行政主席夫妻と在アルゼンチン沖縄連合会 |
74.ブラジル・アルゼンチン移住団79人、 |
75.第一陣ブラジル沖縄観光団について ヤビク旅行社 |
76.屋良朝苗行政主席を訪ねた南米からの郷土訪問団 |
77.南米二世招致留学生補助金関係 |
番号 | 展示資料件名 | 資料年代 | 出処情報 |
閲覧用資料 コード等 |
---|---|---|---|---|
■海外移民のはじまり―ハワイ | ||||
1 |
『臨時沖縄県土地整理事務局記念帖』より 土地整理事業測量風景 |
日付なし | 岸秋正文書 | T00022298B |
2 |
『沖縄法制史』東京税務監督局 より 「土地整理事業ノ影響」 |
1904年6月25日刊 | 岸秋正文書 | T00015965B |
3 | 移民取扱人との契約書 | 1899年12月2日 | 湧川清栄文書 | 0000050298 |
4 |
『金武名所絵葉書』より 移民翁當山久三氏之銅像 金城写真館(金武) |
日付なし | 岸秋正文書 | T00016123B |
5 |
チャイナ号 |
日付なし | 比嘉太郎文書 | 0000063093 |
6 | 日曜布哇新報 第47号 | 1904年11月6日刊 | 湧川清栄文書 | 0000049981 |
7 | 日本帝国海外旅券 第八五七四〇号 | 1907年6月8日 | 湧川清栄文書 | 0000050298 |
8 |
當山久三より平良新助あて書簡 | 1907年9月12日 | 湧川清栄文書 | 0000050298 |
9 |
『琉球俗謡』第六巻より 「新兵の出発」 |
1913年11月27日刊 | 河村只雄文書 | 0000117128 |
10 | サトウキビプランテーションでの労働 | 日付なし | 比嘉太郎文書 | 0000063093 |
11 | 海外渡航周旋業広告 | 日付なし | 湧川清栄文書 | 0000064981 |
12 | 布哇島日本人労働同盟会会員証 | 1920年3月 | 湧川清栄文書 | 0000064998 |
13 |
琉球語賛美歌 比嘉静観編集 |
1925年6月刊 | 湧川清栄文書 | 0000064980 |
14 | 渡航経費の領収書、精算書 | 1934年 | 湧川清栄文書 | 0000050443 |
15 |
オリンピック・グリル外観 アラモアナ地区で沖縄出身者が経営していた |
1932年 | 湧川清栄文書 | 0000050375 |
16 |
盆踊日誌 カハルウ青年会 |
1935年6月 | 比嘉太郎文書 | 0000063182 |
17 | ハワイ在住日系移民関係写真集より 家族写真 | 日付なし | 比嘉太郎文書 | 0000063055 |
18 | 『布哇首里市人会拾周年記念誌』より家族写真 | 1940年8月30日刊 | 湧川清栄文書 | 0000050228 |
■基地に変わった故郷 | ||||
19 |
米軍撮影空中写真 ON24145、ON24146 米軍上陸前の沖縄島中部 |
1945年2月28日 | 米国収集資料 | 接合加工 |
20 |
米軍撮影空中写真 ON24656 米軍上陸から4か月後の沖縄島中部 |
1945年8月18日 | 米国収集資料 | 接合加工 |
21 |
『日布時報』記事 「着の身着のままで衣類に困る沖縄民」 |
1945年10月9日 | 比嘉太郎文書 | 0000063148 |
22 |
『ハワイに於ける沖縄被服救済運動の動機とその記録』 |
1964年10月刊 | 比嘉太郎文書 | 0000060976 |
23 | 『救援ニュース』 第1号 在米沖縄救援連盟機関誌 | 1946年9月5日 | ― | T00012316B |
24 | Hawaii Times より 「沖縄の救済は先づ教育より」 | 1947年8月11日 | 湧川清栄文書 | T00020740B |
25 |
『Brasileira Kaiho』 会報 第12号 創刊1周年紀念号 伯国赤十字社公認日本救援会サンパウロ支部沖縄救援委員会 |
1948年6月 | 比嘉太郎文書 | T00002297B |
26 | 米軍統合参謀本部文書より U.S. Military Base Requirements | 1945年10月 | 米国収集資料 | 0000037300 |
27 | 牧港飛行場建設現場写真 | 1945年7月6日 | 米空軍コレクション | 0000112236 [14-38-1] |
28 | ハワイ・ワイルク昭和青年会館で救援物資の荷造りを終えて | 1945年12月15日 | 比嘉太郎文書 | 0000063055 |
29 | 飛行場内住民立入禁止について 沖縄民政府総務部長より宜野湾村長あて | 1948年5月27日 | 琉球政府文書 | 0000072871 |
30 | 「北谷村の近況」 稲嶺盛昌北谷村長より湧川清栄あて書簡 | 1948年2月26日 | 湧川清栄文書 | 0000050532 |
31 |
沖縄医療救済連盟の趣意書 「病める同胞を救ふ」 |
1949年4月26日 | 湧川清栄文書 | 0000050303 |
■琉球政府計画移民のはじまり―ボリビアへ | ||||
32 | Agriculture and Economic Reconstruction in the Ryukyus. A Report – Agricultural Mission to the Ryukyus 農地問題と移民政策について言及したヴィッカリー報告書 | 1949年11月 | USCAR文書 | 0000011844 |
33 | 沖縄群島知事平良辰雄より財団法人沖縄救済更生会湧川清栄あて書簡 | 1950年11月20日 | 湧川清栄文書 | 0000061335 |
34 | 「移民促進関係」より 移民金庫の発足に当り行政主席談話 | 1954年4月25日起案 | 琉球政府文書 | R00053762B |
35 | 『第一次三カ年沖縄振興綜合計画書 沖縄群島政府』より | 1951年1月 | 平良幸市文書 | 0000061517 |
36 | The Okinawans in Latin America: SIRI Report No.7 | 1954年8月刊 | E.フライマス文書 | 0000029684 |
37 |
『ティグナー報告書 ブラジル編』 訳: 琉球政府社会局移民課 |
1957年3月刊 | 琉球政府刊行物 | G80000151B |
38 | 海外移民促進大会宣言 | 1953年12月5日 | 稲嶺一郎文書 | 0000032744 |
39 | 『雄飛』第6号 「移民使節を送る使命達成を祈るや切」 | 1953年12月10日発行 | 稲嶺一郎文書 | 0000030686 |
40 | 海外移民促進大会決議案 | 1953年12月5日 | 稲嶺一郎文書 | 0000032744 |
41 |
ボリビア移民応募に際し宣誓 小禄村當間区移民同志会 |
1954年4月14日 | 稲嶺一郎文書 | 0000032715 |
42 | 南米ボリビア農業移民募集要綱 | 1954年3月 | 稲嶺一郎文書 | 0000032721 |
43 |
ボリビア移民資料 09 琉球人のボリビア移民 会議録 |
1954年3月22日 | 稲嶺一郎文書 | 0000030696 |
44 |
書簡 稲嶺一郎よりロバート・K・リーディング少佐あて |
1954年9月9日 | 稲嶺一郎文書 | 0000030667 |
45 |
「Price Committee Trip」より 田植えする沖縄農民 |
1955年頃 | E.フライマス文書 | 0000024777 |
46 |
『Study of Land Problems in Okinawa prepared by USCAR』 軍用地問題と移民についても言及 |
1955年10月1日 | E.フライマス文書 | 0000024775 |
47 |
『土地問題渡米資料 琉球政府企画室編』 より 戦前・戦後の総人口と農家人口 |
1955年5月12日配布 | 平良幸市文書 | 0000061821 |
48 |
伊佐浜 接収予定地で抗議する人々 |
1955年 7月 |
琉球政府関係写真資料 043 |
012099 |
49 |
伊佐浜 接収予定地の家屋 |
1955年 7月 |
琉球政府関係写真資料 043 |
012104 |
50 |
沖縄の風物写真2-3(2110) 伊佐浜 |
1950年前後 | W.E.ジェンキンス資料 | 0000086415 |
51 |
伊佐浜部落の海外移住関連資料 |
1956年11月13日 | 稲嶺一郎文書 | 0000030712 |
52 |
ボリビア移民資料 08 移民金庫貸付計画 |
1957年11月23日 | 稲嶺一郎文書 | 0000030695 |
53 |
「八重山開拓状況」より 移民入植状況 |
1956年8月末 | 琉球政府文書 | R00062501B |
54 |
「開拓用地買収及び払下関係」より |
1960年12月16日決裁 | 琉球政府文書 | R00058116B |
55 |
八重山移住地で住民と話す大田政作行政主席 |
1960年 4月 |
琉球政府関係写真資料 162 |
045364 |
■戦後移民の広がり―強まる絆 |
||||
56 |
ボリビア 沖縄移住地周辺地図 |
日付なし | 琉球政府文書 | R00054213B |
57 |
南米地図 邦人入植者分布図 大阪商船株式会社 |
1961年5月1日発行 | 稲嶺一郎文書 | ー |
58 |
[写真アルバム]4 軍用地関連写真より |
1961年頃 | E.フライマス文書 | 0000025732 |
59 |
第110回南米ブラジル呼寄移住教育修了記念写真 |
1961年9月5日 | 琉球政府文書 | R00054231B |
60 |
「琉球政府局別所管事業調査写真1 経済局 建設運輸局 文教局」より ボリビアの沖縄移住地 |
1961年~1962年 | 沖縄県文書 | 0000065658 |
61 |
移民船 あるぜんちな丸 |
1958年 5月18日 |
琉球政府関係写真資料 218 |
059471 |
62 |
移住地調査に関する書類 ボリビア |
1963年2月 | 琉球政府文書 | R00053850B |
63 |
『南米移住への道』 |
1963年5月23日 | 琉球政府刊行物 | G80002774B |
64 |
南米移住者募集ポスター |
1963年頃 | 琉球政府文書 | R00054241B |
65 |
政府移動相談所 第2回 東風平村 移民相談班の掲示 |
1963年10月19日 |
琉球政府関係写真資料 014 |
003911 |
66 |
会議録 沖縄からの移住者を日本政府の計画移住に含めることについて |
1964年11月25日 | 稲嶺一郎文書 | 0000031916 |
67 | 移住者の教養訓練関係 | 1966年 | 琉球政府文書 | R00053760B |
68 | ボリビア沖縄移住地の小学生 | 1960年代 | 琉球政府文書 | R00054234B |
69 | 南米移住者連絡会議時に開催された4カ国対抗沖縄角力大会 | 1960年代 | 琉球政府文書 | R00054234B |
70 | 南米移住者連絡会議時に開催された物産展 | 1960年代 | 琉球政府文書 | R00054234B |
71 | ボリビア移住地駐在所関係 | 1966年 | 琉球政府文書 | R00054207B |
72 | 松岡政保行政主席の中南米訪問に関する報告書より コロニア・オキナワにて | 1967年11月6日 | 琉球政府文書 | R00000558B |
73 | 松岡政保行政主席夫妻と在アルゼンチン沖縄連合会 | 1967年10月3日 |
琉球政府関係写真資料 072 |
020390 |
74 | ブラジル・アルゼンチン移住団79人、ボイスベン号で那覇港を出発 | 1968年2月19日 |
琉球政府関係写真資料105 |
029499 |
75 | 第一陣ブラジル沖縄観光団について ヤビク旅行社 | 1970年3月12日 | 稲嶺一郎文書 | 0000031838 |
76 | 屋良朝苗行政主席を訪ねた南米からの郷土訪問団 | 1970年4月 |
琉球政府関係写真資料 128 |
036037 |
77 | 南米二世招致留学生補助金関係 | 1971年度 | 琉球政府文書 | R00053876B |
※このリストに掲載の資料名は、HPのデータベース目録の記載と異なるものがあります。閲覧申請の際は閲覧用資料コードをご参照ください。
参考文献
『沖縄ボリヴィア協会 創立30周年記念誌 つなぎゆく絆』 2016年 沖縄ボリヴィア協会
『沖縄県史』各論編 第5巻 近代 2011年 沖縄県教育委員会