アイスバーグ作戦
めざましい復興を遂げた沖縄の戦後史は、沖縄戦の記憶なくして語ることはできないでしょう。この特別企画展では、米軍が1945年3月から展開した沖縄進攻作戦「アイスバーグ作戦」計画を軸に、沖縄戦をふり返ります。
1945(昭和20)年1月6日に作成された「第10軍作戦計画アイスバーグ(氷山)」は、米軍が沖縄戦に際して用いた総合作戦計画書です。この作戦は、米軍が日米開戦以降太平洋地域で展開した戦闘の経験や教訓を盛り込み、沖縄占領に引き続く日本本土上陸までを視野に入れたものでした。
この計画書には米軍が沖縄戦をどのような戦略・戦術のもとに立案し遂行しようとしたかということが示されており、一方で、知らず知らずのうちに戦争に巻き込まれていった沖縄の運命を対照的に浮かび上がらせています。
沖縄側の戦時の記録は、戦中・戦後の混乱のためにその多くが残されていませんが、米国は大量の沖縄戦の記録(文書や写真、映像資料も含めて)を保存し、米国国立公文書館などで公開しています。当館はこれまで、米国国立公文書館をはじめとする在米の資料保存機関や関係者から沖縄戦関連資料を収集してまいりました。
もちろんそれらの記録は、あくまでも勝利者の目というフィルターを通したものであり、また、「書かれた」記録は、戦争体験者の「記憶」とは異なるものかもしれません。しかし、現代の沖縄に生きるわたしたちがそれらの記録を読み解くことによって、過去と対話し、未来へと歴史的体験を受け継いでいくきっかけが生まれるでしょう。
当館は、県民の皆様にとってそのような場所でありたいと願っています。この特別企画展が、過去と未来をつなぐ機会となることができれば幸いです。
アイスバーグ作戦って?
1944年(昭和19)当初、米軍は台湾攻略の計画立案に力を注いでいました。しかし、フィリピンへの進攻が速いペースで進み、そこに米軍基地を確保できる見込みができたため、台湾を不要と見て小笠原-琉球作戦を実施することが上層部へ提言されるようになりました。
台湾進攻作戦(コーズウェー作戦)は放棄され、同年10月3日、米統合参謀本部は太平洋地域総司令部に対して「1945年3月1日までに南西諸島内で拠点を一つ、あるいはそれ以上占領するよう」発令しました。その頃沖縄は、1944年(昭和19)に創設された第32軍などの日本軍部隊が続々と移駐し、住民は全島要塞化のための飛行場建設や陣地構築などに動員されていました。米軍は沖縄進攻作戦(アイスバーグ作戦)の本格的な計画立案を行い、1945年(昭和20)1月6日付でアイスバーグ作戦計画書(10th Army Tentative Operations Plan 1-45 Iceberg)をまとめ、さらに数度の修正を加えて、作戦遂行に臨みました。この計画書は、状況、任務、管理、指令統制などについて記述した本体部分と、18の付属文書(情報、砲兵・艦砲・航空支援の計画と調整、島司令部計画、軍政府計画などを個別に記述)から構成され、壮大な沖縄進攻作戦の全容を示しています。
アイスバーグ作戦計画書 1945年1月6日 (左)表紙 (右)第1章 概要
b.アイスバーグ作戦の目的は、
(1)(沖縄に)軍事基地を確立すること
(2)東シナ海から中国沿岸及び揚子江流域にわたる海路および空路の安全性を確保すること
(3)日本に対して間断ない圧力をかけること
展示会のコンセプト
「記録された戦争」アイスバーグ作戦展によせて
60年前の戦争において、米軍は沖縄進攻作戦を「アイスバーグ(氷山)」と名付けた。沖縄県公文書館で開催中の特別企画展は、「アイスバーグ作戦~沖縄進攻作戦はこのようにして計画・実行・記録された」と題して、主として米国から収集した資料をもとに沖縄戦を振り返るものである。
展示資料の中には、米軍が当初予定していた台湾進攻計画を放棄して沖縄進攻を決定するに至った会議の議事録がある。その話し合いに基づいて、1944年10月3日付で「南西諸島を占領せよ」という指令が、米統合参謀本部から太平洋地域総司令部へ発せられた。この指令が、20万人余の命が失われた「沖縄戦」を本格的に始動させたのである。アイスバーグ作戦の立案が始まり、同年10月25日付けで配布されたその素案には、沖縄島の東に浮かぶ島々の占領案が示されているが、現実に最初の上陸地となった慶良間諸島は、この時点では標的として意識されていなかった。
これらの資料を見る人は、「もし台湾が予定通り進攻されていたら」「もし素案通りに慶良間占領なしで沖縄進攻が始まっていたら」というような、いくつもの「もし」を心に浮かべるだろう。しかし、日本を降伏に追いつめるための基地として沖縄を選んだ米軍は、時を戻すことなく計画立案を進めた。十・十空襲で島々を襲った爆撃機は同時に、来るべき地上戦における情報収集のために空撮を行い、その空中写真を基に戦術用地図を作成した。展示されている地図を見ると、千ヤード四方の方眼をかけた中に日本軍の陣地や軍事施設が詳細に記入されているのがわかる。方眼に付した四桁の数字は、砲撃時のターゲット番号となる。沖縄の人々が住む空間はこうして座標化され、艦砲射撃の弾丸の多くは正確な放物線を描いてそこに届いた。この地図にあるのは座標の数字だけであり、その弾丸に肉体を吹き飛ばされ苦痛の声をあげる人間はいない。それが「戦争をする」ということなのだろう。米軍のみならず日本軍もまた、たとえば中国大陸の戦線で、”そこに生きる人間の描かれていない地図”を広げていたはずだ。
作戦の計画立案段階だけでなくその実行にあたっても、米軍は血みどろの戦闘を続けながら大量の戦闘報告書を作成し、戦争の瞬間をフィルムに記録し続け、それらを本国に持ち帰った。米国で保管されているこれらの膨大な量の沖縄戦関連資料を調査・収集していると、「記録を残す」ことに対する米国の強い意志を感じ取らざるをえない。米国政府(軍を含む)は、記録が作成される時点から(あるいは作成される以前から)、それが公文書館で後世の人々の検証にさらされるものであることを強く意識している。
だがそれは、権力が行ってきたことの記録をいずれ人々に開き共有するという「民主主義の国」の美しい物語にとどまるものではないように思う。米国政府の記録は、その量と質や管理の的確さから、資料的価値を高く評価され、あらゆる者に公開されている。そのおかげで、かつての被占領者である私たちもその記録をコピーして持ち帰ることができるのだが、米国のこの寛容は、彼らの「正確な記録」に基づいた物語を世界中に流通させようという意図と無縁ではないだろう。
私たちは今、60年前の米軍の「業務記録」を歴史的証拠として読み直すわけだが、このことは公文書館(アーカイブズ)の本質的役割と深く関わっている。本来、公文書館とは、組織が生み出す記録をその発生時点から適切に管理保存し公開するシステムのことだ。公文書館は、博物館や図書館が資料を「収集」するのとは違って、記録を作成段階から「管理」することによって「社会的記憶」を守る。沖縄にもこのようなシステムが確立されない限り、「書かれた公的記憶」を所有し公開する国に、記録においても「占領」され続けるのかもしれない。
特別展開催中は、資料の展示に加えて写真のスライドショーや映像フィルムの上映会を毎日行っている。60年前確かにこの島々で生起した時間に立ち合い、そこから、戦争と平和についての沖縄の物語を、そして「現在」の記録を残していくことの意味を語り始めよう。開館10周年を迎えた公文書館は今、そのような場所として、そこを訪れる人々の前に開かれている。
これは「沖縄タイムス」(平成17年8月24日付)に寄稿したものです。
海上封鎖
米潜水艦部隊は日本軍の暗号解読に成功し、日本近海を航行する商船、艦船の潜水艦による待ち伏せ攻撃を強化しました。米軍は日本の海上封鎖に成功し、沖縄は本土から遮断され孤立の度を深めました。
上の資料は、米軍が傍受した日本軍の無線の翻訳記録です。対馬丸その他の船舶が「8月16日16時に上海から那覇へ向けて出航する(*赤下線部)」ことを伝えています。対馬丸はその後、疎開する子供たちを乗せて那覇を離れ、8月22日米潜水艦ボーフィン号の攻撃を受けて沈没し、1,400人を超える人々が犠牲になりました。
絶対国防圏の突破
1944年9月29日から10月1日まで行われたサンフランシスコ会議では、米海軍首脳が太平洋地域での作戦展開について話し合いました。その焦点は、台湾進攻か、それとも硫黄島・琉球進攻のどちらを選択するかということにありました。台湾進攻にはより多くの兵や物資が必要であることから、ルソン-硫黄島-琉球方面に作戦を展開する案がまとまりました。
キング提督・単独で小笠原諸島を取っても、負担になるだけ。
・台湾作戦は、蒋介石を助けるために、唱えられている面がある。
・台湾作戦のための、兵力・装備が不足というのであれば、自分ならば、ルソンよりも九州を取る。九州作戦の問題は、損害が大きいだろうということである。
・クック提督が今後の太平洋作戦に関わる統合参謀本部の様々な文書と、提案された指令のあらましを説明。
キング提督
・台湾作戦にまわせる装備について統合兵站委員会にまとめてもらったところ、見通しは暗い。
・委員会の報告書には、台湾は素通りしたほうがよいのではないか、という考えも盛られている。
・ニミッツ提督
バックナー将軍は、台湾作戦には相当な兵力、装備が必要だとしている。自分は、この数字に疑義をはさむ立場にはない。
・ここでニミッツ提督は、キング提督に現在提案されている指令に変更を加えるような覚書を渡した。
・ニミッツ提督
この提言は、兵力・装備が不足している現状と空母艦載機の攻撃が効果をあげている事実に基づいている。
(赤下線部)
提言-南西太平洋地域米軍のルソン進攻を(1944年)12月20日、太平洋地域米軍の南方諸島進攻を1月20日、南西諸島進攻を1945年3月1日の期日とする案を支持すべし。
南西諸島を占領せよ
(赤下線部)
【南西太平洋総司令部】
太平洋地域総司令部の南西諸島占領を支援する。
目標期日:1945年3月1日
【太平洋地域総司令部】
南西諸島の1つもしくはそれ以上の拠点を占領する。
目標期日:1945年3月1日
艦砲射撃
アイスバーグ作戦では数種類の地図を作成して各部隊に配布しました。縮尺2万5千分の1の戦術用地図には地勢と地形の特徴、日本軍の施設などが記入され、指定方眼がかけられました。攻撃目標リストには地図の指定方眼と対応する番号が記載されました。伊江島飛行場の位置は、指定方眼の8433HOです。伊江島の奪取は作戦の第二段階に位置づけられていましたが、速いペースで北上を続けた米軍は、4月21日に伊江島を占領しました。その目的は、日本本土の攻撃に備えて東洋最大といわれた伊江島飛行場を確保することにありました。
組織的抵抗の終結
【タイトル】G-2 Summary June 1945 【資料コード】0000111468 記録アドレス:2112Ca029
首里を放棄した第32軍牛島中将は、益永大尉に(鉄血勤皇隊で構成する)千早隊を指揮して組織的戦闘終結後も沖縄島においてゲリラ戦を続けるよう6月18日付の文書で命じました。G-2 サマリーには、この文書の英訳文に続けて、「沖縄島における敵の組織的抵抗は6月21日に終結し、6月22日に第10軍司令官によって同島の制圧が宣言された」との記載があります。G-2とは軍の情報部のことで、サマリーは押収文書の内容や捕虜から得た情報、戦闘経過や戦場の写真などを収録した日報形式の文書です。
牛島中将の最後の抵抗は、書き残すに値する。彼が自ら書き、署名したこの命令書はあらゆる可能性に照らして最後のものだったと思われる。
指令
益永大尉 宛
この士官が千早部隊を率い、陸軍の組織的戦闘が終結した後は沖縄島でのゲリラ戦の任にあたる。
1945年6月18日
第32軍司令官 牛島満
(*赤下線部)
沖縄島における敵の組織的抵抗は6月21日に終結し、6月22日に第10軍司令官によって同島の制圧が宣言された。
3.敵の死傷者
総戦死者数 - 78,198
4月1日以来の生き埋めにした敵の数 - 27,255
捕虜総数 - 軍人 1,879人
非武装の労働者 1,990人
民兵 0人
スパイ 0人
4.敵の戦闘能力
第32軍の残存兵力を組織して沖縄島におけるゲリラ戦を行って抵抗を続けることは可能
5.比較的可能性の高い見通し
(1)牛島中将の劇的な死は、沖縄戦の最高潮を示した。サムライの作法に則ったハラキリによる死は、沖縄防衛に失敗したことを古式に従って天皇に償う唯一の方法だったのだ。
(2)第32軍司令官によって残された命令は、われわれの補給施設や電信、指揮所、あるいは指揮官への敵対的行動をとることを目的として、いまやわれわれの捕虜となっている日本軍人と密かに通じることとしている。
(3)捕虜の汚名を着てしまったこと、そして一見すると友好的で協力的な態度であることなどから、われわれは彼ら捕虜が故国を永久に捨ててしまったのだという判断に傾きがちであった。しかしながら、彼ら捕虜はやはり敵には違いないという単純な事実は残る。故国が敗戦の屈辱をこうむるのを、何の恨みももたずに眺めているとは考えにくい。
(4)捕虜たちが抵抗を続けるためには、外部からの援助が必要であろう。それは、沖縄人、落下傘兵、あるいは、いまだに投降していない敵のグループから得られるかもしれない。島の北端には1,000人と見積もられる数の日本兵の一団がおり、地元民からの援助を受けながらゲリラ活動をしている。この勢力が、捕虜収容所の中に武器や爆発物を流すことや、捕虜を解放しようとすることは、まったく不可能というわけでもない。島にこれだけ大勢の捕虜がいるかぎり、じつにありえることなのである。空挺部隊が捕虜を助けようとやってくる可能性も否定できない。捕虜を解放しようとすればいかなる場合でも大きな犠牲がでるだろうが、それはそのような試みの抑止にはならない。これだけ狂信的で自殺的な敵であれば、通常の人間の行動則はあてはまらない。
沖縄戦の終結
【タイトル】降伏調印文書 【資料コード】0000017549
掃討戦を続けた米軍は、7月2日にアイスバーグ作戦の終了を宣言しました。日本本土上陸の準備を進めていたところ、広島・長崎の原爆投下、日本のポツダム宣言受諾があり、第二次世界大戦が終結しました。日本政府の降伏文書調印は9月2日、沖縄では南西諸島の全日本軍を代表して先島師団長納見敏郎中将らが、9月7日に降伏文書に署名して沖縄戦が公式に終了しました。全戦没者数はおよそ20万人、うち一般県民9万4千人を含む沖縄県出身者12万2,228人、米軍1万2,520人とされています。
第10軍司令部
1945年9月7日
降 伏
下記に署名する日本人司令官は、1945年9月2日横浜において、大日本帝国によって執行された全面降伏に従って、ここに正式に下記の境界線内の琉球諸島の島々への無条件降伏を行う。
北緯30度東経126度より北緯24度東経122度より
北緯24度東経133度より北緯29度東経131度より
北緯30度東経131度30分より頭書の地点
納見敏郎中将
先島群島日本軍司令官
高田利貞少将
奄美群島日本陸軍司令官
加藤唯雄海軍少将
奄美群島日本海軍司令官
J.W.スティルウェル
米国陸軍大将