行政主席の時代
平成29年5月23日から12月28日まで、当館展示室で所蔵資料展「『行政主席』の時代」を開催しました。
1972年(昭和47)5月15日、アメリカの施政権返還により、沖縄は日本に復帰しました。沖縄戦で上陸した米軍の占領以来軍事支配下の27年間、沖縄住民は自治権の拡大を求めて不屈の歩みを進めました。沖縄住民の民政機構である「琉球政府」において、行政府の長の地位にあったのが「行政主席」です。歴代の5人の行政主席は、「沖縄の帝王」と呼ばれた米軍の高等弁務官や、日本政府との折衝のなかで、どんな沖縄の未来を描いていたのでしょうか。
■軍事占領-アメリカ統治の始まり
■琉球政府の設立
-初代行政主席 比嘉秀平
-第2代行政主席 当間重剛
-第3代行政主席 大田政作
-第4代行政主席 松岡政保
-第5代行政主席 屋良朝苗
■群島の「知事」たち
■検閲と渡航拒否
■政府機能の拡充を求めて
■琉球政府の「三権」
■軍事占領-アメリカ統治の始まり
1945年(昭和20)3月末に沖縄に上陸した米軍は、「米國軍占領下ノ南西諸島及其近海居住民ニ吿グ」として、日本帝国のすべての権限を停止し、米国海軍軍政府を樹立して軍政を施行することを宣言しました。米軍は沖縄住民を収容し、その中からリーダーを選んで軍政当局と住民との連絡調整にあたらせました。
1945年(昭和20)8月20日、軍政副長官の声明に基づき、収容所の住民代表会議で選ばれた15人による「沖縄諮詢委員会(沖縄諮詢会)」が設立されました。委員会は収容所内での住民自治や食料配給、保健衛生などの民生活動を担って、米軍政府との連絡調整にあたりました。諮詢会の建物は、現在のうるま市石川の民家を用いたものでした。
住民が収容所から帰還して市町村が復活するにつれて、これを統括する政府が必要となり、米軍政府は1946年(昭和21)4月、沖縄中央政府(直後に沖縄民政府と改称)、さらに奄美、宮古、八重山のそれぞれに民政府を創設しました。民政府の長は知事とされましたが、米軍政府が任命し、住民でなく軍政副長官に対して責任を負う地位でした。
自治の拡大を求める民政府に対して、ワトキンス少佐は「軍政府は猫で沖縄は鼠(ねずみ)である、猫の許す範囲しか鼠は遊べない。猫と鼠は今好い友達だが猫の考へが違った場合は困る」「講和会議の済むまでは米軍政府の権力は絶対である」と諭しました。
1950年(昭和25)、米軍は、琉球列島の4区域の民政府に代えて、それぞれ群島政府を創設しました。このように琉球住民の民政機構が変遷する一方、アメリカは極東軍総司令部発のいわゆるFEC指令により、1950年(昭和25)12月15日付で琉球列島米国民政府(USCAR)を設立しましたが、軍政の実質は変わりませんでした。USCARの長である民政副長官は、東京の極東軍司令部の指揮の下、高等弁務官制の導入までは沖縄現地の最高責任者の地位にありました。
1.降伏を促すビラを手に捕虜となった住民 |
2.名護 田井等 民間人収容所 |
8.沖縄諮詢会堂前 集合写真 |
9.会議録4 沖縄民政府 |
10.米国海軍軍政府指令 第156号 沖縄中央政府の創設 |
11.米国軍政府布令第22号 群島政府組織法 |
12.米国民政府布告第1号 琉球列島米国民政府の設立 |
■琉球政府の設立
13.琉球臨時中央政府創立式典関係 |
14.USCAR布令第68号 琉球政府章典 |
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15.USCAR布告第13号 琉球政府の設立 |
16.琉球臨時中央政府創立式典 那覇 |
初代行政主席 比嘉秀平
4つの群島政府では各自の行財政運営が進んでいましたが、米軍は、琉球列島全体の中央集権的な政府機構が望ましいと考えるようになり、中央政府創設の準備機関として、琉球臨時中央政府を設立しました。臨時とはいえ、すでに司法・立法・行政の権能を備え、比嘉秀平が臨時中央政府行政主席に任ぜられました。琉球臨時中央政府は琉球政府発足までの1年間、各群島政府と併存しながら群島政府の統合吸収の手続きを進めました。
USCAR布告13号と同布令68号により、集権的行財政システムとしての琉球政府が1952年(昭和27)4月1日をもって設立され、4つの群島政府と臨時中央政府は解消されました。琉球政府は「琉球における政治の全権を行使することができる」と謳われましたが、その権能はUSCARが完全にコントロールしていました。琉球臨時中央政府行政主席だった比嘉秀平は、琉球政府の初代行政主席に就任しました。
USCAR布告第13号「琉球政府の設立」の第2条は、「行政主席はこれが選挙制になるまで民政副長官が、これを任命する」としましたが、USCARは1968年(昭和43)まで主席公選を実施しませんでした。主席公選は、沖縄住民にとって自治権拡大のシンボル的な意味を持つようになりました。
1952年(昭和27)4月28日、対日平和条約が発効しましたが、琉球列島の施政権はアメリカが保持することとなりました。USCAR布告第22号「平和条約に基づく米国民政府の存続」は、そのことを確認するものとして発されました。
やがて「銃剣とブルドーザー」による米軍用地の強制接収が本格化し、土地を追われる住民は琉球政府へ救済を求めました。比嘉主席はアイゼンハワー大統領に書簡を送り、農民は重要な米軍基地を建設することに協力的であるから、その農民の願いを聞き入れてくれることが米琉関係をよりよいものにする最善唯一の方法だと訴えました。この手紙から3か月後、比嘉は心臓発作により急逝しました。
比嘉秀平 関連年表 |
17.琉球政府創立式典 那覇 琉球大学 |
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18.琉球政府創立式典関係書類 |
19.米国民政府布告第22号 |
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20.比嘉主席とアイゼンハワー大統領との書簡 |
21.民政府知事、民政議員の公選に関する檄文 |
第2代行政主席 当間重剛
米軍用地問題折衝のため、当間重剛行政主席が第二次折衝団として渡米しました。当間はワシントンD.C.の前に南米の沖縄人移住地を訪問した際、地料一括払い容認を発言して物議をかもしましたが、この訪米で軍用地問題だけでなく講和発効前損失補償についても一定の成果を引き出しました。
当間は、戦前は大政翼賛会沖縄支部長を務めた経歴がありますが、沖縄の施政権の日本への返還について時期尚早と主張しました。
当間重剛 関連年表 |
22.軍用地問題折衝のため渡米した当間重剛行政主席 |
23.沖縄人の沖縄をつくる会 新聞広告 |
第3代行政主席 大田政作
1957年(昭和32)6月5日の大統領行政命令第10713号「琉球列島の管理に関する行政命令」により、USCARの長として高等弁務官が置かれました。弁務官は国防長官が国務長官に諮(はか)り、大統領の承認を得て、合衆国軍隊の現役軍人から選任することが定められています。弁務官は、法令の制定・改廃・琉球政府予算の拒否、琉球政府職員の罷免権まで、絶大な権限を持ちました。
大田政作は高等弁務官制施行の1957年(昭和32)に琉球政府の行政副主席に就任し、1959年(昭和34)に当間重剛主席の後任として主席に任命されました。1960年(昭和35)6月19日、東京へ向かう途中で沖縄に立ち寄ったアメリカのアイゼンハワー大統領を琉球政府に招きましたが、沖縄住民の大規模な復帰請願デモがこれを迎えました。
大田の主席在任期間はキャラウェイ高等弁務官の任期と重なり、キャラウェイの強硬な統治方針と大田の政治基盤である沖縄自民党との板ばさみに苦しむこともありました。大田はキャラウェイに辞表を提出し、紆余曲折の末、後任として松岡政保が選ばれました。
大田政作 関連年表 |
26.アイゼンハワー大統領への太田主席の歓迎メッセージ |
27.大統領行政命令第10713号 |
28.アイゼンハワー大統領来沖 |
30.キャラウェイ高等弁務官送別会 |
31.行政主席退任式であいさつする大田政作 那覇 武徳殿 |
34.ケネディ新政策の評価と将来の課題 |
第4代行政主席 松岡政保
琉球政府行政主席の任命形式は、米軍の直接任命から、立法院第一党が指名する者を弁務官が任命する形式になっていました。松岡政保の行政主席就任式におけるスピーチ原稿に「最後の任命主席就任式として歴史に残る日でありますように」という部分に朱字で大きな×が見られますが、実際の就任式ではこの部分も演説されて反響を呼びました。松岡の主席2期目は、大統領行政命令第12263号によって立法院議員による間接選挙形式となり、松岡は長嶺秋夫立法院議長から当選の認証を受けました。
松岡の在任中、佐藤栄作総理大臣がワトソン弁務官の招待により沖縄を訪問しました。歓迎ムードの一方で、住民2万人がデモ行進して総理宿舎前で座り込んだため、佐藤が米軍基地内に宿泊する波乱もありました。沖縄住民の自治権拡大要求、反戦平和運動の高まりに直面した松岡は、住民に対して「日本復帰するより現在のように米国の統治下において米軍基地に協力している方が得策である」と信ずる「何ものか」を与えることが必要で、それは「琉球住民の米本土への移民」であるとした文書を残しています。
松岡政保 関連年表 |
35.行政主席就任式におけるスピーチ原稿 松岡政保 |
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36.ワトソン高等弁務官から |
37.立法院議長から松岡政保への当選証書 |
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40.教公二法阻止、抗議県民大会 立法院横広場 |
41.ワトソン高等弁務官による佐藤栄作総理大臣歓迎レセプション フォートバックナー将校クラブ |
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42.ジョンソン大統領と会談する松岡主席 |
43.米国の琉球統治のより安定のための提言 |
第5代行政主席 屋良朝苗
松岡政保は最後の任命主席となり、1968年(昭和43)11月11日に初の行政主席公選が実施されました。
「明るい沖縄をつくる会」は、主席と立法院議員総選挙に向けて1968年(昭和43)6月に結成された革新候補の支持母体でした。対日平和条約第3条撤廃、即時無条件全面返還の獲得、アメリカのベトナム侵略戦争・軍事基地・日米安保条約反対その他の統一綱領を掲げました。この幅広い結集はその後も「革新共闘会議」として活動を続けました。
行政主席選挙では屋良朝苗が、日米両政府の支援を受けた西銘順治に大差で当選しました。 投票率は89.11%でした。当選直後に起こったB52戦略爆撃機の墜落炎上に始まり、毒ガス移送問題、ゼネスト、軍雇用員大量解雇問題、ドルから円への通貨切替えに伴う損失補償への対応、日本復帰対策など、沖縄をとりまく情勢は厳しさを増していきました。
日本への施政権返還を合意した1969年(昭和44)11月の「日米共同声明」に続き、1971年(昭和46)6月に調印された「沖縄返還協定」の内容は、「基地のない平和な沖縄」につながるものではなく、屋良は返還協定調印式を欠席して抗議の意思を示しました。琉球政府の復帰措置総点検プロジェクトチームが作成した「復帰措置に関する建議書」は、衆院沖縄返還協定特別委員会での審議に採り入れられずに終わりました。
屋良朝苗 関連年表 |
45.初の公選主席として登庁する屋良朝苗 |
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47.生命を守る県民共斗会議2.4統一行動集会 |
48.第一次毒ガス移送 美里村 住民と話し合う屋良主席 |
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49.ドル個人保有高確認作業 |
51.全軍労48時間ストライキ 不当解雇撤回要求 |
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53.返還協定調印式をテレビで視聴する |
54.復帰まであと1日の横断幕 行政府ビル |
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57.明るい沖縄をつくる会 資料 |
58.主席・立法院議員総選挙革新共斗会議 関係資料 |
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59.屋良朝苗回想録 『激動八年』 直筆原稿 |
61.佐藤総理大臣に訴える 琉球政府行政主席屋良朝苗 |
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62.返還協定等に対する要請書 昭和46年5月 |
63.復帰措置に関する建議書 昭和46年11月 |
■群島の「知事」たち
1952年(昭和27)4月1日の琉球政府設立以前、沖縄群島、宮古群島、八重山群島、奄美群島のそれぞれに民政府や群島政府、政庁が設置され、その長は「知事」という名称でした。群島政府は租税賦課権を有して独自の行財政運営を行い、群島知事は住民の直接選挙で選出されました。群島政府組織法の規定は日本の地方自治法に準拠しており、自治権の拡大が見られました。
1948年(昭和23)頃に撮影された1枚の写真に、当時の4人の知事が勢揃いしています。向かって左から、吉野高善八重山知事、具志堅宗精宮古知事、軍政府長官ヘイドン陸軍准将、軍政副長官クレイグ大佐、中江実孝臨時北部南西諸島知事、志喜屋孝信沖縄知事。
65.四民政府の知事たち |
66.許可認可書類綴 八重山民政府総務局総務地方課 |
67.警察部書類綴 1950年 政治会合の取扱に関する件 |
69.沖縄群島政府外観 |
70.奄美諸島の復帰に伴う各省関係法令 |
■検閲と渡航拒否
沖縄住民の権利意識が高まるにつれて、米軍による不条理な人権制約に対する住民の抗議の声が上がっていきました。なかでも検閲や渡航拒否問題は、日常生活に身近な事例でした。
USCARが沖縄教職員会発行の歌集を違法として回収を命じたことを契機に、USCAR布令第144号集成刑法に定める出版物発行許可制(事実上の検閲)の廃止を求める運動がおこりました。
また、琉球列島から日本へ渡航するには、USCARから証明書の交付を受ける必要がありましたが、USCARが「好ましからざる」と考える人物には渡航証明が与えられませんでした。この恣意的な「渡航拒否」に対する抗議行動も活発になりました。
73.『愛唱歌集』の出版許可指令書 |
74.『愛唱歌集』 沖縄教職員会発行 |
78.渡航拒否抗議県民大会関係資料 |
■政府機能の拡充を求めて
行政主席たちは、沖縄の社会発展を目指して、それぞれ構想を抱いていました。
大田政作は、「琉球政府の権限拡大に関する資料」で、自治権の拡大に加えて 琉球電力公社及び琉球水道公社の管理権を琉球政府に移管するようUSCARに要求しています。 財政健全化のために必要な提案でしたが、USCARは最後まで応じませんでした。
松岡政保は、USCARでなく直接に米国政府に対する行政主席の要望事項として「The Chief Executives Request for Consideration to the Government of the United States」をまとめました。施政権の返還を勧告するなど、明確な主張が見られます。
屋良朝苗も多くのビジョンを発表しました。1970年(昭和45)の「長期経済開発計画」は、企画局企画部がまとめたもので、「わが国の南の玄関として日本経済の一翼をにないつつ、基地経済から脱却して経済の自律的発展を遂げ、県民ひとりびとりが日本国民として平和で豊かな生活を享受できるような地域社会の建設をめざ」すとしています。
1970年(昭和45)3月、日本復帰準備について沖縄現地における協議および調整の機関として「復帰準備委員会」が発足しました。日米琉からそれぞれ高瀬侍郎大使、ランパート高等弁務官、屋良主席が顧問として参加しました。USCARの権限を早期に移管して日本復帰を円滑に進める目的のもと、各顧問代理とスタッフが作業にあたりました。琉球政府から沖縄県へと、沖縄の世替わりが急ピッチで進んでいきました。
84.長期経済計画書 |
85.琉球政府の権限拡大に関する資料 |
86.The Chief Executives Request for Consideration |
89.復帰準備委員会小委員会議事録 |
90.復帰準備委員会発足 |
92.Civil Administration of the Ryukyu Islands Report for period 1 July 1967 to 30 June 1968. Vol. XVI High Commissioner of the Ryukyu Islands. |
94.日本政府南方連絡事務所 那覇市与儀 |
■琉球政府の「三権」
琉球政府の行政府ビルは1953年(昭和28)竣工。現在の県庁の位置とほぼ同じです。1階と2階は琉球政府、3階と4階はUSCARが使用し、屋上には星条旗が掲げられました。 USCARは1968年(昭和43)に浦添に移転しました。
司法ビルには琉球上訴裁判所、中央巡回裁判所、那覇治安裁判所が入所していました。
立法院は1954年(昭和29)竣工。日本復帰後も沖縄県議会として使用されましたが、 1999年(平成11)に解体撤去となりました。玄関の楕円柱だけが残されて、公文書館玄関入口に設置されています。琉球政府時代、行政府、裁判所、立法院、三権を象徴する3つの建物は近接していました。
行政府ビルの入口に掲げられていた銅板には「亜米利加合衆国依り琉球の住民へ献呈さる(Dedicated)」と記されていました。米国統治の象徴だった銅板は、日本復帰の日に取り外されました。
96.行政府ビル「献呈」の銅板の取り外し |
98/99.琉球政府公印 |
100.USCAR and GRI Building |
102.司法ビル |
103.立法院ビル |
番号 | 展示資料件名 | 資料年代 | 出処情報 | 閲覧用資料 コード等 |
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■軍事占領-アメリカ統治の始まり | ||||
1 | 降伏を促すビラを手に捕虜となった住民 | 1945年6月17日 | 占領初期沖縄関係写真資料 陸軍30 | 06-17-3 |
2 | 名護 田井等 民間人収容所 | 日付なし | 米海兵隊写真資料11 | 77-36-4 |
8 | 沖縄諮詢会堂前 集合写真 | 1945年 | 米国収集資料 | 00000017549 |
9 | 会議録4 沖縄民政府 | 1946年4月18日 | 琉球政府文書 | R00159003B |
10 | 米国海軍軍政府指令 第156号 沖縄中央政府の創設 | 1946年4月22日 | 琉球政府文書 | RDA000002 |
11 | 米国軍政府布令第22号 群島政府組織法 | 1950年8月4日 | 琉球政府文書 | RDAP000027 |
12 | 米国民政府布告第1号 琉球列島米国民政府の設立 | 1950年12月15日 | 琉球政府文書 | RDAP000033 |
■琉球政府の設立 | ||||
13 | 琉球臨時中央政府創立式典関係 | 1951年 | 琉球政府文書 | 0000062785 |
14 | USCAR布令第68号 琉球政府章典 | 1952年2月29日 | 琉球政府文書 | RDAP000028 |
15 | USCAR布告第13号 琉球政府の設立 | 1952年2月29日 | 琉球政府文書 | RDAP000033 |
16 | 琉球臨時中央政府創立式典 那覇 アーニーパイル劇場 |
1951年4月1日 | 占領初期沖縄関係写真資料 陸軍28 | 05-88-4 |
初代行政主席 比嘉秀平 | ||||
17 | 琉球政府創立式典 那覇 琉球大学 | 1952年4月1日 | 占領初期沖縄関係写真資料 | 07-20-4 |
18 | 琉球政府創立式典関係書類 行政主席官房 |
1952年 | 琉球政府文書 | 0000088098 |
19 | 米国民政府布告第22号 平和条約に基づく米国民政府の存続 | 1953年4月30日 | 琉球政府文書 | RDAP000033 |
20 | 比嘉主席とアイゼンハワー大統領との書簡 | 1956年7月 | アイゼンハワー大統領図書館 | 0000073435 |
21 | 民政府知事、民政議員の公選に関する檄文 | 1948年4月12日 | 琉球政府文書 | R00000442B |
第2代行政主席 当間重剛 | ||||
22 | 軍用地問題折衝のため渡米した当間重剛行政主席 | 1958年6月27日 | 安里積千代文書 | 0000049934 |
23 | 沖縄人の沖縄をつくる会 新聞広告 | 1969年10月10日 | 平良幸市文書 | 0000062061 |
第3代行政主席 大田政作 | ||||
26 | アイゼンハワー大統領への大田主席の歓迎メッセージ | 1960年6月19日 | 大田政作文書 | 0000063897 |
27 | 大統領行政命令第10713号 琉球列島の管理に関する行政命令 | 1957年6月5日 | 琉球政府文書 | RDAP000036 |
28 | アイゼンハワー大統領来沖 デモ隊をおしとどめる米兵 那覇 | 1960年6月19日 | 琉球政府関係写真資料001 | 000172 |
30 | キャラウェイ高等弁務官送別会 あいさつする大田政作主席 那覇 国映館 | 1964年6月26日 | 琉球政府関係写真資料027 | 007455 |
31 | 行政主席就退任式であいさつする大田政作 那覇 武徳殿 | 1964年10月31日 | USCAR広報局写真資料9-5 | 38-42-4 |
34 | ケネディ新政策の評価と将来の課題 沖縄自由民主党 | 1964年3月20日 | 大田政作文書 | 0000063875 |
第4代行政主席 松岡政保 | ||||
35 | 行政主席就任式におけるスピーチ原稿 松岡政保 | 1964年10月31日 | 松岡政保文書 | ー |
36 | ワトソン高等弁務官から松岡政保への行政主席任命状 | 1964年10月31日 | 松岡政保文書 | ー |
37 | 立法院議長から松岡政保への当選証書 | 1966年3月16日 | 松岡政保文書 | ー |
40 | 教公二法阻止、抗議県民大会 立法院横広場 | 1967年1月28日 | 琉球政府関係写真資料098 | 027615 |
41 | ワトソン高等弁務官による佐藤栄作総理大臣歓迎レセプション フォートバックナー将校クラブ | 1965年8月19日 | 琉球政府関係写真資料048 | 013649 |
42 | ジョンソン大統領と会談する松岡主席 ホワイトハウス | 1967年3月29日 | 松岡政保文書 | ー |
43 | 米国の琉球統治のより安定のための提言 | 1964年 | 松岡政保文書 | ー |
第5代行政主席 屋良朝苗 | ||||
45 | 初の公選主席として登庁する屋良朝苗 行政府前 | 1968年12月2日 | 琉球政府関係写真資料97 | 027244 |
47 | 生命を守る県民共斗会議2.4統一行動集会 嘉手納総合グラウンド |
1969年2月4日 | 琉球政府関係写真資料117 | 032828 |
48 | 第一次毒ガス移送 美里村 住民と話し合う屋良主席 | 1971年1月 | 琉政府関係写真資料134 | 037566 |
49 | ドル個人保有高確認作業 琉球銀行を視察する屋良主席 | 1971年10月 9日 | 琉球政府関係写真資料 141 | 039552 |
51 | 全軍労48時間ストライキ 不当解雇撤回要求 | 1970年 9月10日 | 琉球政府関係写真資料 131 | 036955 |
53 | 返還協定調印式をテレビで視聴する琉球政府幹部ら 那覇八汐荘 | 1971年6月17日 | 琉球政府関係写真資料138 | 038813 |
54 | 復帰まであと1日の横断幕 行政府ビル | 1972年5月14日 | 琉球政府関係写真資料144 | 040378 |
57 | 明るい沖縄をつくる会 資料 | 1968年 | 沖縄県祖国復帰協議会文書 | R10000447B |
58 | 主席・立法院議員総選挙革新共斗会議 関係資料 | 1968年 | 琉球政府文書 | R10000747B |
59 | 屋良朝苗回想録 『激動八年』 直筆原稿 | 日付なし | 屋良朝苗文書 | 0000112866 |
61 | 佐藤総理大臣に訴える 琉球政府行政主席屋良朝苗 | 1969年11月 | 琉球政府文書 | 0000105865 |
62 | 返還協定等に対する要請書 昭和46年5月 | 1971年5月 | 琉球政府文書 | R00001220B |
63 | 復帰措置に関する建議書 昭和46年11月 | 1971年11月 | 琉球政府文書 | 0000105865 |
■ 群島の「知事」たち | ||||
65 | 四民政府の知事たち (Military Government Activities: Annual Report 1947 and 1948 所収写真) | 1948年頃 | E.フライマス文書 | 0000025597 |
66 | 許可認可書類綴 八重山民政府総務局総務地方課 大浜町昇格について | 1947年9月25日 | 琉球政府文書 | R00002981B |
67 | 警察部書類綴 1950年 政治会合の取扱に関する件 | 日付なし | 琉球政府文書 | RDAE00081 |
69 | 沖縄群島政府外観 | 日付なし | 琉球政府文書 | R00000496B |
70 | 奄美群島の復帰に伴う各省関係法令 | 1953年 | 琉球政府文書 | R00003016B |
■検閲と渡航拒否 | ||||
73 | 『愛唱歌集』の出版許可指令書 | 1961年5月6日 | 門奈直樹文書 | 0000015575 |
74 | 『愛唱歌集』 沖縄教職員会発行 | 1960年12月24日 | 門奈直樹文書 | 0000015613 |
78 | 渡航拒否抗議県民大会関係資料 | 1963年8月2日発行 | 沖縄県祖国復帰協議会文書 | R10000002B |
■政府機能の拡充を求めて | ||||
84 | 長期経済計画書 | 1960年10月 | 琉球政府文書 | R00005552B |
85 | 琉球政府の権限拡大に関する資料 | 1964年8月 | 琉球政府文書 | 0000105861 |
86 | The Chief Executives Request for Consideration to the Government of the United States. March 1967 | 1967年3月 | 琉球政府文書 | R00001139B |
89 | 復帰準備委員会小委員会議事録 | 1972年 | 琉球政府文書 | R00098671B |
90 | 復帰準備委員会発足 | 1970年3月24日 | USCAR広報局写真資料19-4 | 64-20-4 |
92 | Civil Administration of the Ryukyu Islands Report for period 1 July 1967 to 30 June 1968. Vol. XVI High Commissioner of the Ryukyu Islands. | 1968年 | ー | U00000981B |
94 | 日本政府南方連絡事務所 那覇市与儀 | 1963年 | 琉球政府関係写真資料182 | 050713 |
■琉球政府の「三権」 | ||||
96 | 行政府ビル [献呈]の銅板の取り外し |
1972年 5月15日 |
琉球政府関係写真資料 144 |
|
98/99 | 琉球政府公印 | ― | 琉球政府文書 | ― |
100 | USCAR and GRI Building | 1966~67年頃 | ワーナー文書 | 0000017522 |
102 | 司法ビル | 1962年 | 那覇地裁文書 | 0000066855 |
103 | 立法院ビル | 1968年 | 琉球政府関係写真資料100 | 028138 |