空中写真にみる沖縄のかたち
平成30年1月16日から9月2日まで、当館展示室で所蔵資料展「空中写真にみる沖縄のかたち」を開催しました。
沖縄戦に際して、米軍は爆撃機や空母艦載機で沖縄上空を飛行し、膨大な数の空中写真を撮影しました。空中写真は、作戦地図やその後の米軍基地建設計画の基礎資料として使われました。
沖縄県公文書館は、これらの空中写真を米国国立公文書館から収集し、利用に供しています。戦禍に見舞われる前の沖縄のすがたと、その後の復興のありようを空からの眼で見てみましょう。
市町村名等は全て2020年現在の表記としました。
■焦土の沖縄
■沖縄戦に際して米軍が撮影した空中写真
■沖縄戦時の軍用飛行場の移り変わり
■戦後の出発‐村落のすがた
■変貌する沖縄 復興・開発・近代化
■焦土の沖縄
1941年(昭和16)12月8日に日米が開戦、アメリカはサイパン、フィリピン、沖縄を占領して基地を確保し、日本本土への上陸を図ろうとしました。大本営は、沖縄に第32軍を配備して、迎撃のための飛行場建設を進めましたが、これらの飛行場は1944年(昭和19)のいわゆる「10・10空襲」の攻撃対象となり、沖縄各地で火の手があがりました。それから半年後の1945年(昭和20)3月末から、猛烈な艦砲射撃、空爆、地上戦が始まり、沖縄島は3カ月で焦土と化しました。
1.中部から見た10.10空襲 1944年10月10日 1944年(昭和19)10月10日、沖縄は米機動部隊の猛烈な空襲を受けた。午前6時過ぎに始まった空襲の第1波は、那覇・嘉手納・読谷にあった日本軍の各飛行場を主な攻撃対象とした。この写真は読谷から南方を望み、牧港飛行場の向こう、那覇方面で煙の上がる様子をとらえている。手前右は陸軍北飛行場(読谷)、左は陸軍中飛行場(現 嘉手納飛行場)。 |
2.10.10空襲下の那覇 奥武山一帯 1944年10月10日 10.10空襲に際して、米艦載機による攻撃は5波、延べ1,000機余りが出動した。空襲は沖縄島の広範囲に及んだが、県都・那覇は集中的に攻撃された。最後の攻撃は午後2時45分開始、那覇市の死傷者は軍民合わせて668人、負傷者758人にのぼった。 |
3.『那覇市全図』 1935年4月1日発行 当時の那覇市は県庁が所在し、沖縄の行政・経済・文化の中心地だった。首里・真和志・小禄の合併前で市域は比較的小さかったが、9年後、投下された焼夷弾によってこれら那覇市域の90%が焼失した。 |
4.灰燼の那覇 1945年7月1日 10.10空襲と地上戦を経た那覇は瓦礫の山と化していた。旧那覇の中心部一帯も上陸した米軍に完全に制圧され、物資集積所、戦闘部隊の兵舎が並ぶ基地に変わっている。 |
5.那覇市奥武山一帯 2010年9月27日 10.10空襲から65年後の那覇市。沖縄都市モノレールが運行し、沖縄セルラースタジアム、県立武道館、奥武山公園など、人々のレジャー空間が形成されている。米軍は、1945年(昭和20)に軍港とした那覇の港を使い続けてきたが、浦添市への移設が計画されている。 |
6.米軍上陸 読谷村字都屋 1945年(昭和20)4月1日、米軍は、3月26日の慶良間諸島上陸に続いて、読谷から北谷にかけての海岸から沖縄島に上陸した。 |
9.浦添市前田 1945年4月2日 前田集落の北側にそびえる前田高地は、米軍の歩兵部隊も縄ばしごで登らざるを得ないような絶壁だった。ここでの攻防は、映画「ハクソー・リッジ」でも知られる。4月下旬から5月にかけての戦闘ののち、米軍はここを突破して首里へ迫った。 |
10.前田高地(ハクソー・リッジ)のスケッチ 『Intelligence Monograph』(米陸軍第10軍作成の報告書 1945年7月付)に収録された米兵によるスケッチ。米軍は写真のほかに、その場で状況を記録したイラストも報告書に活用した。 |
11.伊計島 1945年4月1日 空爆される伊計島。米軍は沖縄島の東海岸に海軍艦艇の停泊地を求めて、安全を確保しようとした。この空爆後の4月7日、伊計・宮城・平安座・浜比嘉に上陸して、日本軍がいないことを確認したが、津堅島には日本軍部隊がいたために、4月10日から11日にかけて米軍との地上戦が行われた。 |
12.うるま市 海中道路 1990年10月17日 勝連半島の屋慶名から平安座島を1972年(昭和47)竣工の海中道路4.75kmが結ぶ。のち、伊計大橋、浜比嘉大橋が建設され、藪地島も半島と架橋された。1969年(昭和44)、アメリカ資本のガルフ社が石油備蓄基地建設を開始。のちに平安座島と宮城島の間を埋め立てて拡張した。巨大なオイルタンクが見える。●が、11で空爆を受けている集落付近。 |
15.嘉手納町字嘉手納 1945年8月18日 1945年(昭和20)8月18日撮影の嘉手納飛行場(日本陸軍の中飛行場)一帯。ここを占領した米軍は日本本土攻撃に備えて、2,290mの滑走路2本を中心に大規模な拡張整備を行った。軍用道路として巨大なロータリーがすでに出来あがっていた。嘉手納飛行場は現在も米軍航空基地の中枢として機能している。 |
16.浦添市牧港 1945年5月1日 激しい戦闘のさなかで逃げまどう住民を、米軍は日々数千人も「保護」して収容所に送った。この写真には路上を行く人の姿があるが、進軍する米軍か、避難民の姿か判然としない。 |
17.糸満市米須・大度・摩文仁 1946年2月22日 日本軍第32軍の牛島司令官は23日(22日説あり)摩文仁丘で自決。米軍の艦砲射撃・爆撃・火炎放射器などによる掃討戦で、一帯は畑や森、集落まで焼き尽くされた。写真は1946年(昭和21)2月22日撮影。黒い帯のように見えるのが摩文仁丘。左手の白い部分は米軍の駐屯地で、福地飛行場の短い滑走路が見える。 |
18.糸満市米須・大度・摩文仁 2010年12月10日 摩文仁の旧集落を含む摩文仁丘周辺は「平和祈念公園」となり、丘の北側の麓に沖縄県平和祈念資料館、「平和の礎」が建つ。 |
■沖縄戦に際して米軍が撮影した空中写真
気球・航空機・人工衛星などを用いて、上空から地表の様子を撮影した写真のことを「空中写真(Aerial Photograph)」といいます。第二次世界大戦初期は、ドイツやイギリスで空中写真による情報収集活動が盛んに行われ、アメリカでも1942年(昭和17)1月に写真情報隊が組織されました。
沖縄戦に際して、米軍は綿密な計画のもとに空中写真による偵察を実施し、撮影した写真を解析して作戦地図を作成しました。いわゆる10・10空襲直前の1944年(昭和19)9月29日から1945年(昭和20)3月28日の間に総計224機の米軍偵察機を飛ばして、208,802枚の空中写真を撮影したとされます(G-2作成の報告書『インテリジェンス・モノグラフ』より)。
撮影に使用したネガフィルムは、9インチ×9インチ(約23cm×23cm)、9インチ×18インチ(約23㎝×46㎝)と大きく、豊富な情報量がありました。作戦地図は、日本軍との戦闘だけでなく、その後の占領の基礎資料ともなりました。
空中写真には、垂直写真と斜め写真があります。正確な地図を作るには、カメラのレンズ中心と地表の撮影中心を結ぶ線(カメラ軸)が、地球面に対して厳密に垂直なものが望ましいのですが、実際の撮影時には多少の傾きが生じます。傾きが3度以内のものは垂直写真、3度以上のものは斜め写真として区別されます。一般に、斜め写真は地図作成の資料には用いませんが、地上の様子を奥行きをもってとらえ、戦争の破壊のすさまじさを伝えています。
P1.航空カメラを搭載し、撮影任務につく。 |
P2.撮影した大きなネガロールフィルムから情報を判読する。 |
P3.大きく焼いたプリントで標的区域をチェックする。 |
P4.フィルムから写真を現像する。 |
■沖縄戦時の軍用飛行場の移り変わり
大日本帝国陸軍第32軍や海軍は、航空攻撃によって米軍に打撃を与えるという大本営の構想のもと、地上兵力と住民を総動員して各地に飛行場を建設しました。上陸した米軍はこれらの飛行場の多くを奪取して日本本土攻撃のために拡張整備するほか、新たな飛行場を建設しました。
7.西原町小那覇 西原飛行場 1946年2月22日 |
8.西原町小那覇 西原飛行場跡一帯 2010年9月27日 |
13.沖縄市比屋根~泡瀬 1946年2月22日 |
14.沖縄市比屋根~泡瀬 2010年9月27日 |
■戦後の出発‐村落のすがた
米軍が周辺離島含めて16地区に設置した民間人収容所に、30数万人の住民が生活していました。収容所の衛生状態や食料事情、治安は必ずしもよいものとは言えず、飢餓やマラリアで亡くなる者もいました。
1945年(昭和20)10月頃から帰村が認められるようになりましたが、収容中に私有地が接収されて軍事施設となり、元の居住地へ帰ることのできない人々は1946年(昭和21)4月時点で13万人いたとされます。元の居住地が軍用地として囲い込まれてしまった住民は、やむなく周辺に住み着くようになりました。集落ごと別の土地へ移動した例も多くありましたが、本来の地主との間でトラブルも起こりました。
運よく戦火をまぬがれた集落に戻れた人々や、焼き尽くされた跡地に集落を再建することから始めた人々もいました。
19.多良間島 1945年4月30日 |
20.多良間島 2008年11月14日 |
21.東村字有銘 1945年3月1日 |
22.東村字有銘 1947~51年 |
23.大宜味村字塩屋 1945年2月28日 |
24.大宜味村字塩屋 1947~51年 |
25.名護市字二見 1945年2月28日 |
26.名護市字二見 1947~51年 |
27.うるま市石川 収容所 1945年8月5日 |
28.うるま市石川 1945年12月10日 |
29.名護市辺野古 収容所 1945年7月8日 |
30.名護市久志~辺野古 1946年2月22日 |
31.宜野湾市喜友名 1944年9月29日 |
32.宜野湾市喜友名 1945年8月18日 |
33.宜野湾市 2001年1月12日 |
34.Futema Airdrome 1945年9月19日 |
■変貌する沖縄 復興・開発・近代化
激しい戦闘と占領によって変わり果てた郷土でしたが、復興の歩みも始まり、1953年(昭和28)には戦前の生活水準に回復したとされました。経済構造や土地利用の変化、大規模開発に伴って、景観もさらに変わっていきました。軍用地として接収された土地が返還されて新しい生活空間となった例もあれば、戻らぬままで地域振興の阻害要因と見られている例もあります。
35.北谷町砂辺 1945年2月28日 |
36.北谷町砂辺 1945年8月18日 |
37.北谷町砂辺 2010年9月27日 |
38.本部町 上本部飛行場一帯 1946年4月19日 |
39.本部町 上本部飛行場跡一帯 1977年11月24日 |
41.那覇市辻原 1945年7月1日 |
42.那覇市辻原 2010年9月27日 |
43.牧港住宅地区 1968年 |
44.牧港住宅地区 1970年5月5日 |
45.那覇新都心 1993年8月3日 |
46.那覇新都心 2010年9月27日 |
47.南風原町兼城、宮平、与那覇一帯 1945年4月2日 |
48.南風原町兼城、宮平、与那覇一帯 2010年9月27日 |
49.糸満市西崎一帯 1945年4月17日 |
50.糸満市西崎一帯 2005年1月24日 |
51-1.埋立許可願 糸満町 1951年 |
51-2.埋立許可願 糸満町 1951年 |
52.沖縄市中央 1945年2月28日 |
53.沖縄市中央 2010年9月27日 |
54.米軍作戦地形図 1:4800 AZAGAWA SHEET 122 1948年 |
55.那覇市安謝方面を望む 1947~51年 |
56.那覇市安謝~浦添市勢理客 1945年2月28日 |
57.那覇市安謝~浦添市勢理客 2005年1月24日 |
58.首里 1945年5月18日 |
59.首里 1977年12月13日 |
60.首里 2010年9月27日 |
61.首里 丘の斜面を埋める着弾の跡 1945年 |
番号 | 展示資料件名 | 資料年代 | 種別 | 資料コード 出所情報 |
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■焦土の沖縄 | ||||
1 | 中部方面から見た10.10空襲 | 1944年10月10日 | 米軍空撮 | ON24024 CV13-125E(s) 095 |
2 | 10.10空襲下の那覇 奥武山一帯 | 1944年10月10日 | 米軍空撮 |
0000106165 |
3 | 『那覇市全図』 | 1935年4月1日発行 |
地図 |
T00021602B 岸秋正文書 |
4 | 灰燼の那覇 | 1945年7月1日 | 米軍空撮 | ON27821/1AD 28PRS 025 |
5 | 那覇市奥武山一帯 | 2010年9月27日 | 国土地理院所蔵 ※ | COK2010 1-C12-8 |
6 | 米軍上陸 読谷村字都屋 | 1945年4月1日 | 米軍空撮 | ON24696 CVL27-81 013 |
9 | 浦添市前田 | 1945年4月2日 | 米軍空撮 | ON27835 CV20-103 052 |
10 |
前田高地(ハクソー・リッジ)のスケッチ |
1945年7月 | 文書 | 0000128574 RG407: 陸軍高級副官部文書 (第二次世界大戦作戦報告書) |
11 | 伊計島 | 1945年4月1日 | 米軍空撮 | ON24618 CV17-531 012 |
12 | うるま市 海中道路 | 1990年10月17日 | 国土地理院所蔵※ | OK-90-1X C8-3,5,7 |
15 | 嘉手納町字嘉手納 | 1945年8月18日 | 米軍空撮 | ON24656 1VV(8PS)R230-2-6(6PG)18 040-1 |
16 | 浦添市牧港 | 1945年5月1日 |
米軍空撮 |
ON24618 CV38-70 012 |
17 | 糸満市米須・大度・摩文仁 | 1946年2月22日 | 米軍空撮 | 16548 1RS M45 8AF VV A064 |
18 | 糸満市米須・大度・摩文仁 | 2010年12月10日 | 国土地理院所蔵 ※ | COK2010 1-C22-17 |
■沖縄戦に際して米軍が撮影した空中写真 | ||||
P1 | 航空カメラを搭載し、撮影任務につく。 | 1945年 | 写真 |
0000112241/16-09-1 |
P2 | 撮影した大きなロールネガフィルムから情報を判読する。 | 1945年 | 写真 |
0000112260/80-36-4 |
P3 | 大きく焼いたプリントで標的区域をチェックする。手には虫眼鏡。伊江島 | 1945年 | 写真 |
0000112241/16-04-2 |
P4 | フィルムから写真を現像する。 | 1945年 | 写真 |
0000112241/16-09-3 |
■沖縄戦時の軍用飛行場の移り変わり | ||||
7 | 西原町小那覇 西原飛行場 | 1946年2月22日 | 米軍空撮 | 16548 1RS M45 8AF VV A001 |
8 | 西原町小那覇 西原飛行場跡一帯 | 2010年9月27日 | 国土地理院所蔵※ | COK2010 1-C10-19 |
13 | 沖縄市比屋根~泡瀬 | 1946年2月22日 | 米軍空撮 | 16548 1RS M45 8AF VV A031 |
14 | 沖縄市比屋根~泡瀬 | 2010年9月27日 | 国土地理院所蔵※ | COK2010 1-C3-24 |
■戦後の出発‐村落のすがた | ||||
19 | 多良間島 | 1945年4月30日 | 米軍空撮 | 16561 25PS 6PG 5M-120Z-2 3V 003 |
20 | 多良間島 | 2008年11月14日 | 国土地理院所蔵※ | COK20086X-C6-6 |
21 | 東村字有銘 | 1945年3月1日 | 米軍空撮 | ON24551 CV18-404 128 |
22 | 東村字有銘 | 1947~51年 | 写真 | 0000033545-1028 W・ジェンキンス文書 |
23 | 大宜味村字塩屋 | 1945年2月28日 | 米軍空撮 | ON24144 3PR5M63XXIBC-IV 047 |
24 | 大宜味村字塩屋 | 1947~51年 | 写真 | 0000033548-1196 W・ジェンキンス文書 |
25 | 名護市字二見 | 1945年2月28日 | 米軍空撮 | ON23975 3PR5M62XXIBC-Ⅳ 051 |
26 | 名護市字二見 | 1947~51年 | 写真 | 0000033545-1031 W・ジェンキンス文書 |
27 | うるま市石川 収容所 | 1945年8月5日 | 写真 | |
28 | うるま市石川 | 1945年12月10日 | 米軍空撮 | 16545 1RS M22 8AF VV A012 |
29 | 名護市辺野古 収容所 | 1945年7月8日 | 写真 | 112-12-1 米海軍写真資料24 |
30 | 名護市久志~辺野古 | 1946年2月22日 | 米軍空撮 | 16548 1RS M45 8AF VV A020 |
31 | 宜野湾市喜友名 | 1944年9月29日 | 米軍空撮 | 16543 14PL MR7 RV 468BG 014 |
32 | 宜野湾市喜友名 | 1945年8月18日 | 米軍空撮 |
ON24656 1VV(8PS)R230-2-6(6PG)18 |
33 | 宜野湾市 | 2001年1月12日 | 国土地理院所蔵 ※ | COK2001 1X-C1-5 |
34 | Futema Airdrome | 1945年9月19日 | 文書 | U00002111B RG77:工兵隊長室文書 |
■変貌する沖縄 復興・開発・近代化 | ||||
35 | 北谷町砂辺 | 1945年2月28日 | 米軍空撮 | ON23975 3PR5M62XXIBC-IV 008 |
36 | 北谷町砂辺 | 1945年8月18日 | 米軍空撮 | ON24656 CV11-85S 034-2 |
37 | 北谷町砂辺 | 2010年9月27日 | 国土地理院所蔵※ | COK2010 1 C1A 16 |
38 | 本部町 上本部飛行場一帯 | 1946年4月19日 | 米軍空撮 | 16556 1RSM578AFVV A009 |
39 | 本部町 上本部飛行場跡一帯 | 1977年11月24日 | 国土地理院所蔵※ | COK771-C17-2 |
41 | 那覇市辻原 | 1945年7月1日 | 米軍空撮 | ON27821 1AD-28PRS 008 |
42 | 那覇市辻原 | 2010年9月27日 | 国土地理院所蔵※ | COK2010 1-C11-8 |
43 | 牧港住宅地区 | 1968年 | 写真 |
0000108912/056435 |
44 | 牧港住宅地区 | 1970年5月5日 | 国土地理院所蔵※ | MOK701-C10-12 |
45 | 那覇新都心 | 1993年8月3日 | 国土地理院所蔵※ | OKC931-C48A-8 |
46 | 那覇新都心 | 2010年9月27日 | 国土地理院所蔵※ | COK2010 1-C10-10 |
47 | 南風原町兼城、宮平、与那覇一帯 | 1945年4月2日 | 米軍空撮 | ON27835-CV20-103-012 |
48 | 南風原町兼城、宮平、与那覇一帯 | 2010年9月27日 | 国土地理院所蔵※ | COK2010 1-C13-14 |
49 | 糸満市西崎一帯 | 1945年4月17日 | 米軍空撮 | ON24618 CV17-602 003 |
50 | 糸満市西崎一帯 | 2005年1月24日 | 国土地理院所蔵※ | COK2004 1X-C12-3 |
51 | 埋立許可願 糸満町 | 1951年 | 文書 | R00073752B 琉球政府文書 |
52 | 沖縄市中央 | 1945年2月28日 | 米軍空撮 | ON24146 3PR5M632V 018-2 |
53 | 沖縄市中央 | 2010年9月27日 | 国土地理院所蔵※ | COK2010 1-C1A-21 |
54 | 米軍作戦地形図 1:4800 AZAGAWA SHEET 122 | 1948年 | 地形図 |
0000108935 |
55 | 那覇市安謝方面を望む | 1947~51年 | 写真 | 0000033546-1112,1115 W・ジェンキンス文書 |
56 | 那覇市安謝~浦添市勢理客 | 1945年2月28日 | 米軍空撮 | ON24146 3PR5M632V 007-2 |
57 | 那覇市安謝~浦添市勢理客 | 2005年1月24日 | 国土地理院所蔵※ | COK20041X C6-4 |
58 | 首里 | 1945年5月18日 | 米軍空撮 | ON24605 CVE21 007 |
59 | 首里 | 1977年12月13日 | 国土地理院所蔵※ | COK771-C58-11 |
60 | 首里 | 2010年9月27日 | 国土地理院所蔵※ | COK2010 1-C11-13 |
61 | 首里 丘の斜面を埋める着弾の跡 | 1945年 | 写真 |
0000112235/14-06-1 |
62 | 名護市(旧名護町) | 1945年2月28日 | 米軍空撮 | ON24145 3PR5M63XX1BC 102-1 |
63 | 名護市役所一帯 | 1993年10月23日 | 国土地理院所蔵※ | OKC931-C22-6 |
※種別が国土地理院所蔵となっているものの利用については、国土地理院のホームページをご覧ください(当館では閲覧利用はできません)。