戦後と援護
平成27年9月1日から平成28年3月13日まで、所蔵資料展「戦後と援護」を開催しました。
「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(援護法)は、軍人軍属及び準軍属の公務上の傷病及び死亡等に関し、国家補償の精神に基づいて援護を行う目的で1952年(昭和27)に制定されました。沖縄は戦後27年間にわたって米国施政権下にありましたが、日本政府は、軍人、軍属、準軍属、戦闘参加者へと、沖縄においても援護の範囲を広げ、日本復帰後は沖縄戦当時6歳未満の子供にも援護法が適用されました。
沖縄への援護法適用は1953年(昭和28)4月からとなり、琉球政府は援護事務開始に備えて社会局に援護課を設置しました。以降、援護業務の所管課は、各種の給付事務を実施するにあたって、多くの文書を作成・収受しました。所管省庁から収受した文書や資料、さまざまな事務連絡文書が残されています。また、援護給付申請者の状況を調査する過程で作成した文書には、戦闘により死亡または傷病を負った経緯を説明する資料の添付が多く見られます。援護課文書は援護業務の記録であるとともに、戦争の実相を伝える資料としても重要な意味を持つものと言えるでしょう。
援護業務は、戦没者遺族や戦傷病者等に対する諸般の援護、遺骨収集等の慰霊、叙位叙勲業務など広範な内容を含みます。当館は、琉球政府や沖縄県の援護業務所管課が保管していた援護関係文書の引渡しを受けて選別・整理・保存しており、本展では、それらの文書を紹介しつつ、援護のシステムを通して沖縄の戦後史をたどります。
1 挙国一致・尽忠報国・堅忍持久― だれもが兵士に
日 露戦争、日中戦争、そしてアジア・太平洋戦争―。沖縄からも多くの人々が徴兵・徴用され、不幸にも多くの人々が戦没者や戦傷病者となりました。南洋群島やフィリピンで移民社会を築いていた沖縄移民も、戦闘に巻き込まれて命を失いました。
沖縄では1944年(昭和19)3月、「皇土防衛」の最前線として第32軍が創設され、全島要塞化のために住民は児童生徒に至るまで総動員され、「軍民同居」状態が生じました。米軍の沖縄侵攻に対して、日本軍は「軍官民共生共死の一体化」方針と「出血持久作戦」をもってあたり、軍民無差別の戦場で、沖縄住民は他府県に例のない甚大な被害を蒙りました。
番号 | 展示資料件名 | 資料年代 | 資料群名 | 資料コード |
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1-1 | 那覇市武徳殿 前田組工事中 | 1937年 | 隈崎俊武関連写真資料 | 0000028533 |
1-2 | 渡久地警察署にて モンペ姿の女子警防団 | 1939年 | 隈崎俊武関連写真資料 | 0000028540 |
1-3 | 本部村女子警防団 物見やぐら前にて | 1940年 | 隈崎俊武関連写真資料 | 0000028541 |
1-4 | 本部忠魂碑の清掃作業 各中学校生徒 | 1940年 | 隈崎俊武関連写真資料 | 0000028539 |
1-5 | 第二十五代早川元知事を迎える 金武村 | 1941年 | 隈崎俊武関連写真資料 | 0000028538 |
1-6 | 伊江村警防団 | 1940年 | 隈崎俊武関連写真資料 | 0000028542 |
1-7 | フィリピン・南洋群島方面死亡者名簿 | 昭和39年 | 沖縄県文書 | 0000121075 |
1-8 | サイパン島での激しい戦闘に倒れた日本兵 | 1944年 | サイパン関係写真資料 | 26-G-2645 |
1-9 | 陸軍兵籍簿 210 死没 宮古・下地 | 沖縄県文書 | 0000119342 | |
1-10 | 陸軍兵籍簿 214 死没 八重山・石垣 な~わ | 沖縄県文書 | 0000119346 |
2 沖縄戦―軍民無差別の戦場
沖縄戦では、日米両軍の兵士の戦没者数に加え、非戦闘員である相当数の住民が死亡しました。沖縄戦戦没者数の実数を出すことは不可能に近いと言わねばなりませんが、下記の根拠から、次のような数字が提示されています。
沖縄県出身軍人軍属:厚生省から送付された戦没者名簿の掲載 数及び未帰還者調査票により死亡公報発令者数
他都道府県出身兵: 沖縄護国神社の合祀者数
一般県民:昭和19年と20年の人口比に疎開者推計数などを勘案
「沖縄の援護のあゆみ―沖縄戦終結50周年記念」沖縄県生活福祉部援護課発行より
番号 | 展示資料件名 | 資料年代 | 資料群名 | 資料コード |
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2-1 | 昭和20年4月以降における防衛召集事実資料 豊見城村 三和村 具志頭村 東風平村 兼城村 | 沖縄県文書 | 0000121615 | |
2-2 | 沖縄防衛召集者名簿 副 第二次 さ、れ、そ、む 昭和23年9月 | 沖縄県文書 | 0000120587 | |
2-3 | 陸軍兵籍簿 194 死没 国頭・名護 あ~ひ | 沖縄県文書 | 0000119340 | |
2-4 | 陸軍兵籍簿 200 死没 国頭・今帰仁 あ~の | 沖縄県文書 | 0000119341 | |
2-5 | 沖縄の少年 | 1945年4月2日 | 米海兵隊写真資料 | 76-03-3 |
2-6 | 死んだ女性 那覇 | 1945年5月 | 米海兵隊写真資料 | 73-28-1 |
2-7 | 日本兵の死体にDDTを撒く | 1945年5月8日 | 米海兵隊写真資料 | 73-02-1 |
2-8 | 那覇の目抜き通りをあてもなくさまよう、年老いた沖縄人 | 1945年5月30日 | 米海兵隊写真資料 | 78-12-1 |
2-9 | 死んだ少年 | 1945年5月 | 米海兵隊写真資料 | 73-28-3 |
2-10 | 日本兵の下で、22日間食糧もなく過ごした地元の少年 | 1945年6月 | 米海兵隊写真資料 | 81-30-1 |
2-11 | 死んだ日本軍看護婦 | 1945年6月12日 | 米海兵隊写真資料 | 73-29-1 |
2-12 | 小禄 カメラを向けると顔を伏せる3人の日本兵捕虜 | 1945年6月 | 米海兵隊写真資料 | 98-19-1 |
2-13 | 守備カレンダー | 1945年 | 森田芳雄資料 | T00001335B |
2-14 | 捕虜収容者名簿 正本 沖縄地方世話部 | 1946年 | 沖縄県文書 | 0000121657 |
3 援護法の成立と沖縄への適用
1945年(昭和20)8月15日、日本政府は終戦対策処理委員会を設置しました。連合国最高司令部(GHQ)の占領管理下で軍人恩給は停止されていました。これに代わって、援護法が1952年(昭和27)4月に公布されました。
援護法は、軍人軍属及び準軍属の公務上の傷病及び死亡等に関し、国家補償の精神に基づき、障害者本人には障害年金を、死亡者の遺族には遺族年金・遺族給与金及び弔慰金を支給し援護を行うことを目的としています。沖縄は講和条約発効後も米国施政権下にありましたが、住民は援護法の適用を強く求めました。1952年(昭和27)8月、日本政府は那覇日本政府南方連絡事務所を設置して準備を進め、1953年(昭和28)3月26日援護第187号により、「北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)に現住する者に対し、戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用する」としました。沖縄への援護法適用を受けて、昭和28年4月、琉球政府は社会局に援護課を設置して援護事務を開始しました。
日本本土では、終戦直後から復員処理が進み、沖縄に援護法が適用された昭和28年には戦没者の死亡処理はほぼ終わっていました。しかし沖縄では、戦後約7年の空白の間に、援護業務の基盤となる復員処理がほとんどなされておらず、基礎となる戸籍も戦争で失われて未整備の状態にありました。
沖縄戦関係軍人軍属の復員処理促進のため、1955年(昭和30)8月、琉球政府負担により厚生省から3事務官が沖縄に派遣され、「調査票」に基づく死亡公報の発行を促進して処理を進めることとなりました。遺族は戦没者の「調査票」を居住市町村に提出し、琉球政府援護課が調査して厚生省に送付しました。
番号 | 展示資料件名 | 資料年代 | 資料群名 | 資料コード |
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3-1 | 決議第8号 「戦傷病者、戦没者遺家族等援護法」の琉球に対する適用方陳情」 | 1952年5月2日決議 | 琉球政府公報 号外 1952年6月13日 | |
3-2 | 決議第9号 「日本の戦傷病者、戦没者遺家族等援護法」を 琉球に対し適用する様交渉方御依頼の件陳情」 | 1952年5月2日決議 | 琉球政府公報 号外 1952年6月13日 | |
3-3 | 統計表 1958年度 | 琉球政府文書 | R00084150B | |
3-4 | 市町村援護事務 1966年度 | 琉球政府文書 | R00083739B | |
3-5 | 諸団体に対する補助金交付に関する書類 1955年度 沖縄傷痍軍人会 沖縄遺族連合会 | 琉球政府文書 | R00083840B | |
3-6 | 援護・恩給等に関する沖縄側要求事項とその処理状況 | 1958年 | 平良幸市文書 | 0000061597 |
3-7 | 小池佐世保地方復員部長資料 援護課調査係1958年12月8日 16日 | 沖縄県文書 | 0000121617 | |
3-8 | 立法第86号 「戸籍整備法」 | 1953年11月16日公布 | 琉球政府公報 第46号 1953年11月16日 | |
3-9 | 摩文仁戦跡公園 | 1965年10月14日 | 琉球政府関係写真資料 | 049/013917 |
3-10 | 全琉球戦没者追悼式 識名霊園 | 1958年1月25日 | 琉球政府関係写真資料 | 218/059479 |
3-11 | 死亡者原簿 12 西原村 中城村 | 1955年~1977年 | 沖縄県文書 | 0000115485 |
3-12 | 死亡公報綴 陸軍 (琉球政府・沖縄県保管死亡告知書) 伊江村 | 1954年~1973年 | 沖縄県文書 | 0000115414 |
3-13 | 沖縄戦関係復員届 別冊 | 1961年 ~1962年 | 沖縄県文書 | 0000121633 |
3-14 | 未帰還者名簿 第1類 厚生省援護局 昭和48年1月 | 沖縄県文書 | 0000115345 | |
3-15 | 沖縄未帰還者調査票(新調査票) 昭和30年 | 沖縄県文書 | 0000121725 | |
3-16 | この少年は日本軍に徴用されていた | 1945年4月7日 | 米海兵隊写真資料 | 76-38-3 |
3-17 | 沖縄学徒隊戦闘行動状況 社会局援護課提供 | 琉球政府文書 | R00161452B | |
3-18 | Okinawa Campaign XXIV Corps Action Report April 1, 1945 – June 30, 1945 | 1945年4月~6月 | 第二次世界大戦米軍戦闘地域関連文書 | 0000111468 |
4 援護の範囲拡大
軍と直接の雇用関係のない一般住民は援護の対象となりませんでした。厚生省は、1957 年(昭和32)3月から5月にかけて、引揚援護局職員を沖縄に派遣して沖縄での戦闘状況を調査させた結果、同年7月、「戦闘参加者概況表」を作成して20項目の事例を示して戦闘参加の認定を進めました。
各市町村は「戦闘参加申立書」を該当者から提出させ、琉球政府援護課が審査してのちに厚生省へ進達しました。戦闘参加が認定された者は準軍属扱いとなり、1959年(昭和34)4月から援護法の適用を受けて障害年金、遺族給与金が支給されました。これにより「小学校適年齢の7歳以上」の5万5200余人が戦闘参加者と処遇されました。 日本復帰後、6歳未満の戦傷病者及び戦没者について、保護者の戦闘参加の実態により戦闘参加者として援護法を適用することとなりました。戦傷病者の更生支援も拡大していきました。
番号 | 展示資料件名 | 資料年代 | 資料群名 | 資料コード |
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4-1 | 戦闘参加者概況表 沖縄県生活福祉部援護課 | 照屋栄一文書 | 0000026968 | |
4-2 | 戦斗参加該当予定者名簿 14 南風原村 | 沖縄県文書 | 0000116003 | |
4-3 | 戦斗参加者に関する書類綴 1962年1月 | 琉球政府文書 | R00083672B | |
4-4 | 『これが日本軍だ 沖縄戦における残虐行為』 | 1972年5月刊 | 編/沖縄県教職員組合戦争犯罪追究委員会 | T00018242B |
4-5 | 遭難死没者名簿 1961年1月 | 沖縄県文書 | 0000121656 | |
4-6 | 靖国神社合祀者名簿 対馬丸遭難学童 | 沖縄県文書 | 0000116021 | |
4-7 | 小桜の塔 | 1957年5月21日 | 琉球政府関係写真資料 | 153/042969 |
4-8 | 六歳未満死亡者調査資料 全 | 編/沖縄戦被災者補償期成連盟 | T00001483B | |
4-9 | 病床日誌 05 | 沖縄県文書 | 0000121607 | |
4-10 | 補装具に関する書類 1960年以降 | 琉球政府文書 | R00083863B | |
4-11 | 傷病軍人、復員決定綴 昭和30年12月以降 | 沖縄県文書 | 0000121632 | |
4-12 | 第1回特別弔慰金請求書綴 059(裁定番号2851-2900) | 1966年 | 沖縄県文書 | 0000119833 |
4-13 | 沖縄戦戦没者追悼式典 糸満 摩文仁 | 1965年6月23日 | 琉球政府関係写真資料 | 057/15973 |
5 慰霊と追悼
琉球政府援護課は、援護関係のさまざまな法律に基づいて、戦没者遺族や戦傷病者等に対する諸般の援護を実施しました。援護業務はこの他にも、遺骨収集・霊域管理・慰霊祭・追悼式典の実施、叙位叙勲業務など広範な内容を含みます。戦没者の靖国神社合祀の事務も、琉球政府援護課が市町村分をとりまとめて処理しました。
番号 | 展示資料件名 | 資料年代 | 資料群名 | 資料コード |
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5-1 | 慰霊行進 沖縄遺族連合会ビル前 | 1963年6月22日 | 琉球政府関係写真資料 | 010/002592 |
5-2 | 那覇市識名 戦没者中央納骨所 | 1964年1月 | 琉球政府関係写真資料 | 034/009559 |
5-3 | 沖縄霊域特別参拝団 歓迎会 | 1964年11月 | 琉球政府関係写真資料 | 037/010401 |
5-4 | 佐藤栄作総理大臣来沖 那覇 護国神社 | 1965年8月19日 | 琉球政府関係写真資料 | 198/055391 |
5-5 | 佐藤栄作総理大臣来沖 糸満 黎明の塔に献花 | 1965年8月19日 | 琉球政府関係写真資料 | 199/055606 |
5-6 | 沖縄全戦没者追悼式 第5回 会場遠景 糸満 摩文仁 | 1966年6月23日 | 琉球政府関係写真資料 | 072/020215 |
5-7 | 糸満 遺骨収集 壕内 | 1966年8月11日 | 琉球政府関係写真資料 | 065/018231 |
5-8 | 那覇市奥武山 護国神社 慰霊祭 | 1966年9月 | 琉球政府関係写真資料 | 063/017592 |
5-9 | 平和祈願慰霊大行進 糸満 | 1968年6月23日 | 琉球政府関係写真資料 | 105/029434 |
5-10 | 沖縄全戦没者追悼式 第7回 会場入口 糸満 摩文仁 | 1968年6月23日 | 琉球政府関係写真資料 | 105/029442 |
5-11 | 平和祈願慰霊大行進 糸満 黙とうする人々 | 1971年6月23日 | 琉球政府関係写真資料 | 137/038472 |
5-12 | 靖国神社合祀者名簿 沖縄県 陸軍全 06-04 昭和33年10月17日 霊璽奉安 戦斗参加者 01 | 琉球政府文書 | R00083920B | |
5-13 | 靖国神社に関する書類 補備訂正の分 1961年度 | 琉球政府文書 | R00083865B | |
5-14 | 『若竹』 第05号 慰霊の日特集 | 1964年6月刊 | 刊/ 沖縄遺族連合会青年部 | T00020259B |
5-15 | 慰霊の日に関する書類 1965年度 | 琉球政府文書 | R00084131B | |
5-16 | 戦没者叙位叙勲関係 | 1977年 | 沖縄県文書 | P00013303B |