1968年11月19日 嘉手納基地でB52大爆発事故
B52は主にベトナム戦争で米軍が運用した戦略爆撃機です。1965年(昭和40)から沖縄に飛来するようになりました。同年からベトナム戦争へ本格的に介入した米軍は、嘉手納基地を補給・出撃基地として利用し、1968年(昭和43)2月5日から同基地にB52を常駐させるようになりました。沖縄から直接戦地へ向かう機体を目の当たりにした住民は、「また戦争に巻き込まれるのではないか」と強い恐怖を抱き、不安の声が大きくなっていきました。琉球新報社が同年3月に発表した第三回全琉世論調査では、回答者1,295人のうち85.9%がB52の沖縄駐留について不安に思うと回答しています。
1968年(昭和43)11月19日未明、嘉手納基地内で一機のB52爆撃機が離陸に失敗し、墜落しました。搭載していた爆弾に引火して爆発・炎上し、爆風などにより近隣住民16名が負傷しました。また、屋良小学校を含めた365棟の建物が被害を受けました。事故現場は知花弾薬貯蔵庫に近く、住民に大きな衝撃を与えました。
琉球政府第5代行政主席である屋良朝苗は事故当日の状況を日誌に書き残しています。
『屋良朝苗日誌 022』 1968年11月19日 【0000099333】
「十一月十九日(火)晴
嘉手納B52事故に驚く 岸所長に会う約束でそちを先にし、喜屋武君、福地君と一緒に嘉手納現場へ。現場へは入れなかったが爆風に破かいされ硝子窓の現状を見て驚く 爆風は大変だったようだ 土建ビルと屋良小の幼稚園を見る さんたんたるものだったB52のこの事件はまた沖縄に一もんちゃく起す事だろう」
また事故当日に嘉手納村議会(当時)は、抗議決議を全会一致で採択し、米国大統領や内閣総理大臣、琉球政府行政主席などに対して基地撤去を強く要求しています。
B52核戦略爆撃機の墜落爆発事件に対する抗議と軍事基地の即時撤去を要求する決議 1968年11月19日
『嘉手納基地関係資料 1968.03』より 【R10000560B】
米軍は二度とこのような事故がないよう万全を期すと声明を出しながら、同年12月2日にB52による事故を起こしました。
12月23日、琉球政府立法院は「B52戦略爆撃機の墜落事件に対する抗議と同機の即時撤去を要求する決議」を採択し、住民の平和と安全を米国大統領や国務長官、琉球列島高等弁務官などに要求しました。
また12月7日には沖縄県祖国復帰協議会を含む152の団体や組織が「B52撤去原潜寄港阻止県民共闘会議」(生命を守る会県民共闘会議)を結成し、即時撤去を訴えました。1969年(昭和44)2月4日に実施した2.4統一行動集会は最大規模となり、嘉手納総合グラウンドに約5万4千人が集まりました。この集会では、B52撤去、原潜寄港阻止、労働組合運動の規制を内容とする「総合労働布令」(高等弁務官布令第63号)の撤廃を決議しました。
2.4ゼネスト 生命を守る県民共斗会議2.4統一行動集会 嘉手納総合グラウンド 1969年2月4日【0000108827/032828】
1970年(昭和45)10月6日をもって、沖縄におけるB52部隊は撤退しました。しかし1972年(昭和47)の沖縄の日本復帰直後から、再びB52の飛来が始まり、ベトナム戦争が終結する1975年(昭和50)までの約3年間で、のべ175機が飛来しました。
B52 103機飛来(嘉手納) 1972年10月 【0000137481/070143】