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あの日の沖縄

1970年12月20日、21日「コザ暴動」ーあの日の屋良主席ー

 1970年(昭和45)12月20 日午前6時頃、東京に滞在中の屋良朝苗行政主席のもとに、コザ市(現・沖縄市)で「軍と民衆集団大衝突」が起こっていると報告する電話が入りました。屋良主席は、就任後初の海外視察として出向いたハワイから19日に東京へ到着したばかりでしたが、急きょ沖縄へ戻りました。

 コザの現場で見たものは「沖縄の歴史始まって以来、かつてなかった暴動」の跡でした。

 この出来事の概要については、下記をご覧ください。
あの日の沖縄 1970年12月20日 コザ反米騒動

 この日と翌日の日記に、屋良主席は次のように書いています。

「屋良朝苗日誌 027 1970年(昭和45年)11月28日~1971年(昭和46年)05月02日」【0000099338】より

十二月廿一日(月)晴
局長会議。昨日のコザの暴動
についての意見交換
二、三〇~四時 ベンム官会見
私の立場を話しベンム官の言い分を聞く、
昨日のベンム官の声明書の二、三
のケ所について私から懇談の形
で県民の怒り不平不満反
屈の実情を伝える
声明書の高姿勢を指摘し
反省を促す、糸満の婦人レキ殺
加害者の無罪判決に対す
る県民の非常な憤りを充分
伝え毒ガス撤去にからませての
威圧的声明に強く抗議
する、私は充分云うべき事を云っ
たと思う、軍雇用者の解雇
来年の六月一日までに三〇〇〇人解
雇との事、全くやり切れない
又又大きな刺戟となって、全
軍労や県労協がゆれ動く事
だろう、今年の年末も又今まで
にない大事件が起ってしまった
コザの暴動それに加うるに軍
雇用者の大量解雇が発表さ
れた、目もあてられぬ。情無し。
夕方加藤局長来訪あり
夜正子さんに来てもらって土産を
あげる。

 しばしば言及されている「糸満の婦人れき殺事件」とは、9月18日に米軍人が飲酒運転中に起こした死亡事故のことで、この軍人は12月11日の軍事裁判で無罪判決を受けました。米軍に対する住民の不満は、嘉手納基地内で貯蔵している毒ガス兵器の撤去問題もあいまって、いっそう高まるばかりでした。
 さらに、米軍は「コザ暴動」の翌21日、国頭村の山中で大規模な実弾射撃演習を実施すると通告し、地元住民が実力阻止行動に出るという緊迫した事態を招きました。
 軍雇用員3千人の大量解雇通告も発せられて社会不安が増す中、屋良主席は「今年の年末も又今までにない大事件が起ってしまった」と苦悩しつつ、24日に東京へ向かい、愛知外相やマイヤー駐日大使との折衝に臨む年末となりました。

 「コザ暴動」の翌日に行われた屋良主席とランパート高等弁務官の会談記録が残っています。

USCAR渉外局文書 「1601-03 Reference Paper Files of the Preparatory Commission, 1970-1971, Reference Paper Files, 1970. Koza Incident.」 より
高等弁務官発 陸軍省宛 「高等弁務官 行政主席 会談 1970年12月21日」 1970年12月22日付【U81100953B】 

【赤線部分和訳】
 主席は「米国政府が、毒ガス撤去問題に関する不安を和らげるための何かを行い、糸満裁判において何らかの賠償の手段をとるのでないなら、昨今の沖縄の人々の態度や状況は改善されないだろう。沖縄人は本来、その感情があおられるような何か深刻なことが起きない限り、温和な人々である。ほかに頼みとするものがない時には、コザで起きたような騒動こそが『弱者が感情を表現できる唯一の手段』である」と述べた。主席は弁務官に対してこのことを考慮するよう求めた。主席は12月22日[ママ]ローカルテレビとラジオで放送された高等弁務官のコザ暴動に関する声明を引き合いに出して、沖縄の人々は弁務官の態度が「高姿勢」で、スピーチも「ひじょうに腹立たしくひじょうに挑戦的」と感じている、と述べた。主席は、住民の感情を鎮めるためにあらゆる努力がなされるべきであって、高等弁務官には声明で「火に油を注ぐ」ことのないよう力説した。