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あの日の沖縄

1945年3月26日、4月1日 米軍が慶良間諸島・沖縄本島に上陸

 1945(昭和20)年3月26日、米軍は慶良間諸島へ上陸しました。さらに4月1日には読谷山村渡具知海岸付近(読谷-嘉手納-北谷にかけての海岸線)に艦船約1400~1500隻、兵員約18万3000人をもって沖縄上陸作戦を展開しました。米軍上陸部隊は、第6海兵師団・第1海兵師団・第7歩兵師団・第96歩兵師団の4個師団で、日本軍の大きな抵抗もなくその日のうちに北飛行場(読谷)と中飛行場(北谷)を占領、3日目には沖縄島を南北に分断するほど進撃しました。

 日本本土防衛の最後の〈砦〉とされた沖縄では、日米両軍による激しい戦闘が繰り広げられ、日米双方で20万人もが命を落とし、県民も約4人に1人が犠牲になりました。

 

 

 

【原文和訳】「偵察 日本兵のやり方を熟知している米陸軍第77歩兵師団のベテラン軍人たちが、後に琉球戦の第1段階で島を制圧する第10陸軍の制圧するルートを偵察しながら慎重に渡嘉敷島の山道を上る。日本から南325マイル離れた場所で戦う兵士たちはグアムやレイテ島作戦の経験者。日本軍の犠牲者はすでに多数。」
1945年3月26日 場所:渡嘉敷島 米陸軍通信隊写真15 111-SC-272354

 

 

 

「米国海軍軍政府布告第1号「権限の停止」[通称:ニミッツ布告]」1945年 【RDAE000061】

 1945 年 (昭和20)3 月 26 日に慶良間諸島に上陸した米軍は、沖縄進攻の総指揮を執った米海軍太平洋艦隊司令長官兼太平洋方面総司令官ニミッツ元帥の名の下、米海軍軍政府布告第1号「権限の停止」を公布し、住民に日本による行政権と司法権の停止を通告しました。

 

 

 

【原文和訳】「装軌式上陸揚車両で海岸に向かう第7歩兵師団の兵士たち。」
1945年4月1日 米陸軍通信隊写真11 111-SC-205191

 

 

 

【原文和訳】「上陸用舟艇で海岸に向かう予備軍の一団。」1945年4月1日 米陸軍通信隊写真 11 111-SC-205194

 

 

 

【原文和訳】「岩礁の上に貨物を降ろす為、輸送艦艇の巨大な扉が大きく開いている。」1945年4月1日 米陸軍通信隊写真 11 111-SC-205195

 

 

 

「Views of Yontan Airport, Yellow Beach 1, 1-6 Apr 1945/読谷飛行場、イエロービーチ 1945年4月1日-6日」 米国海兵隊 【0000086978/127-00114-R】      

戦闘機の模型/集落内を走る戦車/第1海兵師団/「読谷飛行場 イエロービーチ1から移動する戦車と兵士たち 第1海兵隊第1大隊が比謝川北にいる第3大隊支援のため移動 上陸2日目」/負傷した老人・若い女性を運ぶ/収容された住民、日本兵/「第1海兵隊 沖縄上陸2日目」/舟艇/日の丸を見る兵士/ビーチへ上陸する兵士/炎上する艦船 <無声映像/カラー> NARA整理番号:127-00114-R

 

 

 

(00001-004) Diary 1945 (2) [6 Apr-17 Jun 1945]「バックナー中将の日記(1945年4月6日~6月17日)」【0000073532】

 サイモン・B・バックナー(1886-1945)中将は、米軍の沖縄進攻作戦「アイスバーグ作戦」の主力部隊である第10軍司令官として沖縄戦に参加。1945年6月18日に前線を視察中に日本軍の砲撃で死亡しました。手書きの日記(コピー)があり、当館は1944年(昭和19)1月1日から死亡前日(45年6月17日)までの部分をアイゼンハワー大統領図書館より複写収集しました。

 死亡日前日の6月17日(日)の日記には、東海岸の海軍基地開発を視察。米軍の第24軍団は進歩がなく、日本軍(第32軍)残党の抵抗は激しくなった、と記されています。

 

 下記の「所蔵資料検索」の資料群ガイドから「米国収集資料」>「米国国立公文書館 大統領図書館」>「アイゼンハワー大統領」を選択し、キーワードに「バックナー」を入力すると目録情報が確認できます。
「所蔵資料検索」

 

 

 

【原文和訳】「 バックナー中将最後の写真。6月18日に日本軍の砲撃により沖縄で戦死した第10陸軍司令官バックナー中将(右端)の最後の写真。中将は攻撃のさなか第6海兵師団の前線監視所におり、数分後に殺された。」1945年6月 米海兵隊写真資料53 99-13-3

 

 

 

【原文和訳】「中将の戦死——前線視察中に日本軍の砲撃により戦死した米第10軍総司令官バックナー中将の遺体が、航空後送センターに傷病者搬送ジープで到着」1945年6月18日 米海兵隊写真資料19 81-35-1  

 

 

 

【原文和訳】「バックナー中将の命を奪った砲火により爆風で倒れたが、すんでのところで死を免れた海兵隊従軍カメラマンのロジャース1等兵。第10軍司令官であったバックナー中将が死す前の、最後の写真を撮ったのが同1等兵である」1945年7月20日 米海兵隊写真資料17 80-36-1

 

 

 現在、読谷村の渡具知海岸付近には米軍上陸の地碑があります。上陸日(1945.4.1)と現在の写真を比較すると、現在は埋め立てが進められ当時と地形が大きく変わっていますが、キノコ型の岩は当時の面影を残しています。

写真左:【原文和訳】「沖縄侵攻中、“イエロービーチ3”の河口で積荷を降ろす艦船。攻撃輸送艦チャールズ・カーロール(APA-28)から撮影。」1945年4月1日 米海軍写真資料13 106-23-4

写真右:読谷村 米軍上陸の地碑より撮影

 

推定座標:26.361277, 127.740170

 

【参考引用文献等】

・宮城悦次郎「第10軍」『沖縄大百科事典 中巻 ケ~ト』(1983年)沖縄タイムス社 pp651-652【T00000199B】

・(財)沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室『概説 沖縄の歴史と文化』(2000年)沖縄県教育委員会発行【0000018553】

・(財)沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室『沖縄県史 資料編12 沖縄戦05 アイスバーグ作戦 和訳編』(2001年)沖縄県教育委員会発行【0000059563】

・『沖縄平和祈念資料館 総合案内』第4刷(2004年)沖縄県平和祈念資料館発行

・沖縄県『沖縄県史 各論編06  沖縄戦』(2016年)【0000137079】

Jenkins, A.P.「The Battle Diary of Lt. Gen. Simon Bolivar Buckner, 1945」琉球大学法文学部国際言語文化学科欧米系 公開日:2007-12-23「琉球大学学術リポジトリ」

沖縄県営平和祈念公園ウェブサイト「バックナー中将戦死之跡」

 

【過去の展示会を見る】

アイスバーグ作戦

[過去の展示会を見る]日本復帰への道「Ⅱ.沖縄戦と〈アメリカ世〉のはじまり」