1948年1月15日 布哇(ハワイ)連合沖縄救済会、郷里へ豚を送る運動を始める
沖縄を占領した米軍は、収容所を設置して住民を囲い込み、生存のために最低限必要な食料等を支給しました。これらの無償配給は、米軍が日本本土上陸のために備蓄していたとされる余剰物資や軍事予算による援助でまかなわれました。
激しい戦闘で社会や生産の基盤が破壊尽くされたため、住民は米軍支給の物資に頼って生活していました。1946年(昭和21)4月以降は貨幣経済が再開し、7月には食料の配給も有償になりました。収容所を出された住民は、衣食住に困窮する生活を送りました。
戦前、沖縄から多くの移民が定着していたハワイでは、終戦直後から沖縄救済のための組織を結成し、衣類を送るなどの活動に積極的に取り組んでいました。1948年(昭和23)初頭、沖縄の人々の生活に欠かすことのできない豚を送り、繁殖させて復興への力にしてもらおうと、布哇連合沖縄救済会が募金活動を展開しました。
郷里沖縄へ豚輸送について 布哇連合沖縄救済会 1948年1月15日
沖縄民政府当時の軍指令及び一般文書 5-4 1948年 【RDAE000075】
こうして集めた資金で購入した豚が、1948年(昭和23)9月、現在のうるま市勝連にある米軍ホワイトビーチに到着しました。米軍はこれをLARA PIG(ララ豚)と呼んでいます。ララとは「アジア救済連盟(Licensed Agencies for Relief in Asia, LARA) 」のことです。第二次大戦で被害を受け衣食住に困窮しているアジア諸国民の救済を目的に、キリスト協会世界奉仕団、アメリカ・フレンド協会奉仕団、ローマ・カトリック教会など10団体が1946年(昭和21)にララを結成しました。
ララはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の許可を受け、ララに送金された救援資金で物資を購入して日本で配給することができました。沖縄への救援資金もララに送金され、1947年(昭和22)の秋から、医薬品、食料品、衣料、学用品その他の支援物資となって沖縄住民の手に届きました。ララ物資は、戦後の沖縄住民生活復興の大きな支えとなりました。ハワイの沖縄移民の募金で購入した豚も、このルートで沖縄に入っています。ララ豚と呼ばれるゆえんです。
到着したララ豚の配給について、琉球軍政本部から沖縄民政府知事あてに、各市町村長(all Mayors)に文書と取扱い説明書を配布するよう指示する文書が残っています。
Distribution of LARA Pigs(豚の配給) 1948年11月19日付
対米国民政府往復文書 1948年 受領文書 【RDAE006013】
この翻訳文書が別の簿冊に綴じられています。
ララにより寄贈せられた豚の配給に就いて 1948年11月19日付
軍政府との往復文書【RDAE000227】
これらの文書によると、豚が到着したのは1948年(昭和23)9月22日、頭数は528頭です。豚の輸送に同行した7人がハワイに帰還したことを報じる新聞記事があります。
「沖縄全縣民が心から豚の寄贈を感謝」『Hawaii Times』1948年12月3日付
沖縄への子豚輸送他 湧川清栄文書【0000050180】
各市町村から農家に配分された豚は、3年後には10万頭にまで繁殖し、沖縄の人々の生活を支えました。
[参考文献]
沖縄大百科事典刊行事務局編 『沖縄大百科事典』「ララ物資」の項 1983年
池宮城秀正 『琉球列島における公共部門の経済活動』 2009年
海外移住資料館ホームぺージ 沖縄と海外移住 「~郷土愛で結ばれたウチナーンチュたち」