1970年1月1日 日本国旗の自由掲揚始まる
米国民政府(USCAR)は、1945年(昭和20)の沖縄占領以来禁じてきた日本国旗の全面掲揚を、1970年(昭和45)1月1日から許可しました。それまでの経緯を資料とともに紹介します。
戦時刑法(米国海軍軍政府布告第二号)では「日本帝国国旗を掲揚し或いはその国歌を唱弾する者」が処罰の対象でした。1947年(昭和22)、石垣ではマクラム道路開削工事において測量の目印に日の丸を使用したことが問題となり、八重山民政府知事と主管課長が始末書を提出するという事態が起きました。
「戦時刑法並びに布告第二号一般警察及び安全に関する規定送付の件」 1947.4.30
『訓令布告告示綴』【RDAE000181】
「測量の為日の丸使用に関する件」
『軍政府関係指令綴 1947年』【RDAE000177】
また、1947年(昭和22)12月5日付、臨時北部南西諸島知事から出された通知には、「奉安殿の御紋章」を除くこと、各種旗・商標等に日本国旗や陸海軍旗に類似する図案等の使用を避けることなどの指示があります。
「国旗並にそれに類するものの取扱について」
(1948年〔昭和23〕1月5日第22号 臨時北部南西諸島政庁公報)
1952年(昭和27)4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し日本は主権を回復しましたが、琉球列島は引き続き米国施政下に置かれることになりました。米国民政府は「刑法並びに訴訟手続法典」(いわゆる集成刑法)を同日付で改正し、政治的意味を伴わない限り個人の家屋又は個人的集会における国旗の使用を認めました(米国軍政府布令第1号改正第26号)。ただし、公共建築物での掲揚は依然として禁じられたため、沖縄教職員会会長の屋良朝苗は、学校や教育振興の場での国旗掲揚を認めるよう求めました。
国旗掲揚に就いての請願 1952年5月7日
(琉球政府文教局文書 国旗掲揚に関する請願 【0000062782】)
屋良の請願から9年後の1961年(昭和36)、池田・ケネディ会談をうけ、米国民政府は1962年(昭和37)1月1日から法定の祝祭日ならびに正月三が日に限り公共建築物でも日本国旗を掲揚することを認めました(米国民政府布令第144号改正第17号)。
また、当時の琉球船籍の船舶には日米どちらの国旗も掲げることはできなかったため、1962年(昭和37)に起きた「第一球陽丸事件」のように国籍不明船として攻撃、拿捕されるなどの問題を生んでいました。このような状況のなか、1964年(昭和39)、琉球政府立法院は「国旗掲揚の自由と正確な国籍の表示を要求する決議案」を可決しました。米国民政府は、1967年(昭和42)7月1日より、琉球船舶に「琉球・RYUKYU」と表示した三角旗とともに日本国旗を掲げることを認めました(琉球船舶規則〔高等弁務官布令第57号改正第3号〕)。
全琉船舶に新船舶旗掲揚 1967年7月1日
琉球政府関係写真資料086 024383
米国民政府布令第144号改正第24号(1969年〔昭和44〕12月18日公布)をもって、琉球内での日本国旗掲揚を禁じた条項が撤廃され、1970年(昭和45)1月1日から施行されました。
「日の丸」のもとに多くの犠牲を強いられた戦中、祖国復帰を熱望して「日の丸」を振った米軍統治時代、そして日本復帰へ。沖縄における「日の丸」掲揚の意味合いは、時代の推移とともに変化してきたと言えるでしょう。
【参考文献】
新崎盛暉 『沖縄現代史』(日本評論社、1976)
沖縄タイムス社編『沖縄の証言(下巻)』(沖縄タイムス社文化事業局出版部、1973)
1964年 沖縄をかけぬけた聖火リレー(2014年度沖縄県公文書館所蔵資料展)