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沖縄関連資料

大田昌秀文書

 2024年(令和6)3月26日、大田昌秀文書の一部を公開しました。今回未公開の資料は、今後、整理を進め公開の準備が整った資料から順次公開します。

【資料の名称】大田昌秀文書 
【資料ガイド】沖縄関係資料>個人文書>大田昌秀文書

【文書の概要】
 本資料群は、長年、研究者・政治家として活動した沖縄県知事を務めた大田昌秀氏(1925-2017)の私文書です。沖縄県知事時代を含め、研究者時代から長年にわたって収集した資料が中心です。2018年(平成30) 7月に沖縄国際平和研究所より受贈しました。

 大田昌秀氏は、1925年(大正14)久米島具志川村(現久米島町具志川)に生まれました。1945年(昭和20)、沖縄師範学校在学中に鉄血勤皇師範隊として学徒動員され、捕虜となり終戦を迎えます。戦後は、早稲田大学を卒業後、米国シラキュース大学大学院へ留学してジャーナリズムを専攻したのち、琉球大学社会学部教授を務めました。

 1990年(平成2)11月の沖縄県知事選挙で政界に転出し、1998年(平成10)まで2期8年を務めました。任期中に、「平和の礎」の建立、沖縄県立平和祈念資料館の移転新築、沖縄県公文書館の設置等を実現しました。また、戦争マラリア犠牲者の補償や厚生年金の格差是正など戦後処理問題の解決にも尽力しました。基地問題にも粘り強く取り組み、米軍用地の強制使用手続きに関する代理署名訴訟では最高裁で沖縄県は敗訴したものの沖縄の基地問題が全国に注目されるきっかけとなりました。さらに、沖縄の自立発展を目指した「国際都市形成構想」の策定や、米軍基地を段階的に全面返還させるとした「基地返還アクションプログラム」を国に提示するなど、精力的に国への働きかけを行いました。

 知事退任後の1999年(平成11)に大田平和総合研究所(のちの沖縄国際平和研究所)を設立し、以後、平和研究に注力しました。その間、2001年(平成13)には、参議院議員に当選し1期6年を務めました。2017年(平成29)6月に死去し、同年7月26日には県民葬が執り行われました。

【シリーズ・リスト】
 1. 沖縄県知事公務に関する文書
 2. 参議院議員活動に関する文書
 3. 執筆・講演・研究活動等に関する文書
 4. 新聞スクラップ
 5. 参考資料
 6. 書簡等
 7. 刊行物

数量】324件

【利用制限】 
 ※本資料群は、個人情報保護等が多く含まれるため、閲覧利用の前に利用制限審査が必要です。閲覧をご希望の場合は、事前に閲覧室までお問合せください。

【公開日】2024年3月26日

大田昌秀 年譜

1925年(大正14) 沖縄県久米島具志川村で生まれる
1941年(昭和16) 沖縄師範学校に入学
1945年(昭和20) 鉄血勤皇隊として動員。情報宣伝部隊「千早隊」に所属。
10月に捕虜となる。
1946年(昭和21) 沖縄文教学校入学
1947年(昭和22) 沖縄外国語学校入学
1950年(昭和25) 早稲田大学入学
1954年(昭和29) 米シラキュース大学大学院に留学。ジャーナリズムを専攻
1956年(昭和31) 米シラキュース大学大学院卒業。琉球大学財団勤務
1958年(昭和33) 琉球大学講師
1963年(昭和38) 2年間、東京大学新聞研究所で研究
1968年(昭和43) 琉球大学教授。2年間、東京大学新聞研究所で研究
1973年(昭和48) 1年間、ハワイ大学東西センターで研究
1978年(昭和53) 1年間、フルブライト研究員としてアリゾナ州立大学で研究
1983年(昭和58) 琉球大学法文学部長
1990年(平成2) 沖縄県知事(~1998年まで)
1999年(平成11) 大田平和総合研究所設立
2001年(平成13) 参議院議員(~2007年まで)
2013年(平成25) NPO法人沖縄平和研究所設立
2017年(平成29) 92歳で死去

主な資料

Ota’s Message(資料コード:0000196633)

大田昌秀氏は、1992年(平成4)から1998年(平成10)まで沖縄県知事を務めました。この間ほぼ毎年、知事として訪米し、米国政府関係者や軍関係者、研究者と面会して、沖縄の基地問題の現状を訴えました。

1997年(平成9)4月の米国議会日本研究グループでのスピーチ原稿「 SPEECH TO THE AMERICAN CONGRESSIONAL STUDY CROUP ON JAPAN」や、The Japan Policy Research Institute (JPRI) での報告原稿「Why Can’t We Reduce the U.S. Military Presence on Okinawa?(Governor Ota’s Message to the JPRI Conference on Security and Stability in East Asia) 」からは、県知事として沖縄の基地問題の解決に向けて、米側の理解と協力を求める大田氏の思いが読み取れます。

普天間基地関係(資料コード:0000196740)

1996年(平成8)12月、沖縄に関する特別行動委員会(SACO : Special Action Committee on Okinawa)最終報告において、普天間飛行場は「今後5乃至7年以内に、十分な代替施設が完成し運用可能になった後」返還するとされました。また、その代替施設は沖縄本島東海岸沖に建設し「普天間飛行場の運用及び活動は、最大限可能な限り、海上施設に移転」する方針が示されました。

「SACO最終報告」を受け、1997年(平成9)11月5日、政府は名護市および県に対し「普天間飛行場代替海上ヘリポート基本案」を提示しました。名護市では同年12月21日に普天間飛行場移設に伴う海上ヘリポート建設の是非を問う市民投票が実施され、「反対」が「賛成」を上回り、大田県政は、1998年(平成10)2月6日、海上ヘリポート建設に反対する意向を表明しました。

本資料には、米国政府や米軍、日米の研究者が普天間飛行場返還に関してどのような方針や意見を示しているか、情報収集した新聞記事や論文、各要人と沖縄県嘱託在米連絡調整員が面談した結果の報告などが含まれています。基地問題の解決に向けた大田県政の取り組みの一端がうかがえます。

 

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