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沖縄関連資料

志喜屋孝信文書

【資料の名称】志喜屋孝信文書

【資料ガイド】沖縄関係資料>個人文書>志喜屋孝信文書

【資料の概要】 

 本資料群は、戦後沖縄の復興、教育の再生に尽力した志喜屋孝信氏(以下、敬称を略し「志喜屋」という。)の私文書です。戦前より沖縄の教育者として知られる志喜屋は、日本がポツダム宣言を受諾した1945年(昭和20)8月15日に発足した、沖縄諮詢委員会(後に沖縄諮詢会に改称。以下「諮詢会」という。)の委員長に選任されました。1946年に諮詢会の機能を引き継いだ沖縄民政府が設置され、志喜屋は、米国軍政府より初代知事の任命を受けます。その後、1950年(昭和25)11月沖縄群島政府発足に伴い知事の職を辞し、琉球大学の初代学長に就任しました。
 本資料群には、志喜屋自身が記録した諮詢会の日誌、自身の沖縄への想いなどが記されている随想録や修養録の他、回想録、私信など公私にわたる活動の詳細な記録が含まれ、志喜屋の政治姿勢や戦後沖縄のおかれた社会状況を感じ取ることができます。

左写真は、本資料群「アルバム」(資料コード:0000248631)より

【シリーズリスト】
1.公務に関する文書
2.琉球大学に関する文書
3.手稿・手記
4.私信・メモ
5.新聞、新聞切り抜き、機関紙
6.写真
7.又吉康和に関する資料
8.その他
9.志喜屋図書館に関する資料(志喜屋の没後の資料)

【数量】 189点

【利用制限】  本資料群には、個人情報や著作物が含まれるものがあります。閲覧利用の前に利用制限審査が必要です。
また、一部の資料は
劣化により利用が制限されます。
資料の閲覧をご希望される場合は、事前に閲覧室までお問合せください。

【公開日】2024年 7月18日

志喜屋孝信 年譜

1884年(明治17) 沖縄県具志川間切赤道(現うるま市)に生まれる
1904年(明治37) 沖縄県立中学校(県立第一中学校、現首里高校)卒業
1908年(明治41) 広島高等師範学校(現広島大学)数物化科卒業
熊本県立鹿本中学校勤務
1911年(明治44) 沖縄県立第二中学校(現那覇高校)勤務
1924年(大正13) 沖縄県立第二中学校(現那覇高校)  校長 就任
1936年(昭和11) 沖縄県立第二中学校校長 辞任
私立開南中学校創設、初代校長 就任
1938年(昭和13) ハワイ、北米、サンフランシスコ、ロサンゼルス、メキシコ北部視察
1945年(昭和20) 沖縄戦により開南中学校 廃校
沖縄諮詢会 委員長に選任される
1946年(昭和21) 沖縄民政府 知事に就任
1950年(昭和25) 沖縄群島政府発足に伴い民政府知事を辞任
琉球大学 初代学長に就任
1951年(昭和26) 沖縄群島社会福祉協議会(現 沖縄県社会福祉協議会 )初代会長選任される
1952年(昭和27) 琉球大学学長 退任
1955年(昭和30) 逝去(享年72歳) 那覇高校において「琉球住民葬」が執り行われた。

※参考資料:「文氏家系物語  1948年(昭和23)07月28日」資料コード:0000248577 

主な資料

諮詢会日誌 1946年(昭和21)03月18日以降[資料コード:0000248579]

 志喜屋自らが記録した諮詢会の日誌。公務記録。

手稿 1950年4月[資料コード:0000248588]

 

戦禍で失われた志喜屋の諸記録を思いだしながら記録した回想録。1941年(昭和16)12月8日から1945年(昭和20)4月6日までの記憶。1941年12月8日の真珠湾攻撃、十・十空襲の記憶など、当時の心情が綴られている。

 「於民政府(沖縄)天妃城跡(1950年4月6日書き始む) これから書いて見るのは今次の戦争で毎日毎日誌し書きたるに日誌や調査書などをなくしたので思い出すままに記憶に残れるものをひまひまに順序なしに書いてみた」(資料抜粋)

家庭農芸 修養自録 1948年3月[資料コード:0000248586]

資料後半の修養自録には、志喜屋が描く人生の理想や政治姿勢、哲学のほか、諮詢会の委員長、そして知事に任命された際の心情や決意などが記されている。

 「大戦後私は勿論私自身の希望せし所でもないのに どうしたことか沖縄に諮詢会が米国軍政府によりておかれ、私が沖縄の代表者百数十名から推されて諮詢会の委員長になり幾許もなく沖縄民政府知事に任命された。(略)私も小さくとも何か全身全霊を傾倒すれば私としての特色を発揮し沖縄のため貢献できることもあろうと小さい私は私として活路があると信じてやってきた、何とかして立派な沖縄をもりたてよう、これが私の決意の全部であった。(略)私の主人は沖縄住民と軍政府である。即ちこの二つ以外には主人はない。この二つから支持されて私は立つせがある。私の身は私の身でない。この二つのための者である」(資料抜粋)

シーツ政策 新聞記事 新沖縄 第02号 他[資料コード:0000248706~0000248766]

 「シーツ政策 新聞記事」として、『新沖縄』『うるま新報』『自由沖縄』『奄美タイムス』『沖縄タイムス』等、1945年(昭和20)から1951年(昭和26)までの新聞が残されている。

アルバム[資料コード:0000248631]

諮詢会、沖縄民政府時代の写真の他、開南中学校の風景や校歌などの記事を収めたアルバム。

左の写真は、「諮詢会会議室にて。右から志喜屋委員長、当山[正堅]、安谷屋[正量]、松岡[政保]委員 (1945年10月28日日曜日 於石川)」(資料キャプションより。[]内は補足。)