平良幸市文書
平良幸市<1909(明治42)年-1982(昭和57)年> は、沖縄県知事を務めた政治家。西原村(現・西原町)出身。沖縄県立第一中学校を経て1928(昭和3)年、沖縄県立師範学校卒。中城小学校訓導を振り出しに教職の道を進みました。1942(昭和17)年から2年間は沖縄県庁で行政職に従事し、沖縄戦時は防衛隊に召集されて米軍の捕虜となった経験もあります。
戦後の米国統治下、西原村長に就任して以降は政治家に転身しました。1950(昭和25)年、沖縄社会大衆党結成に加わり、初代書記長のち委員長として政党活動を続けました。
日本への施政権返還後は、県議会議長、県知事を歴任。屋良朝苗氏の後継者として期待を集め、基地問題、地籍明確化問題、海洋博後の不況を受けた失業者対策、キビ価格交渉や交通方法変更等に取り組みました。1978(昭和53)年、体調の悪化により、交通方法変更実施目前に辞職し、1982(昭和57)年3月5日、75歳で死去。土着政党である沖縄社会大衆党を立脚点として、沖縄の自治と自立のために尽した生涯でした。
本文書群は、ご遺族の厚意により、1995年(平成7)12月に当館へ寄贈されたものです。平良が晩年まで手元に置いていた文書には、彼が直面した最重要な政治課題と、政治家としての信念が記録されています。
・ 政治家としての歩み
1947(昭和22)〜1950(昭和25) 西原村長
1949(昭和24)~1950(昭和25) 沖縄民政府議会議員(村長と兼任)
1950(昭和25)~1952(昭和27) 沖縄群島議会議員
1952(昭和27)~1972(昭和47) 琉球政府立法院議員。2期目は議長となる。
1972(昭和47)~1976(昭和51) 沖縄県議会議員
1976(昭和51)〜1978(昭和53) 沖縄県知事
【作成期間】 1945年~1979年
【シリーズ解説】
平良幸市文書は、下記のシリーズにより目録編成しています。
(1) 沖縄民政府議会議員時代の文書
1949(昭和24)年、平良が議員に任命され(村長兼任)、1950(昭和25)年に群島議会議員に当選するまでの関係文書。3件。
(2) 沖縄群島議会議員時代の文書
資料年代1950年〜1952年。予算書その他。10件。
(3) 立法院議員時代の文書
第1回の立法院議員選挙は1952年であり、平良はこの時から1968年の第8回選挙まで連続当選し、施政権返還の1972(昭和47)年まで8期20年にわたって立法院議員を務めた。琉球臨時中央政府期の文書もこのシリーズに含めたため、資料年代は1951(昭和26)年〜1972年である。151件。
(4) 沖縄県議会議員時代の文書
資料年代は1972(昭和47)年から県知事選挙に出馬のため議員を辞する1976(昭和51)年まで。31件。1971(昭和46)年の文書含む。
(5) 沖縄県知事時代の文書
資料年代は、県知事に当選した1976(昭和51)年から、病気療養のために辞職した1978(昭和53)年まで。55件。
(6) 社会大衆党関係資料
資料年代1955(昭和30)年〜1974(昭和49)年。平良は社大党結党時からの中心メンバーで、1955年に書記長、1958(昭和33)年に委員長、その後再び書記長に選ばれ、施政権返還後にまた委員長となった。シリーズ内の資料は、立法院議会時代の文書、県議会議員時代の文書と時期的に重なるが、党活動的色彩の濃い文書はこのシリーズに分類した。21件。年代不確定資料あり。
(7) 書簡 4件。うち年代が確定しているのは1973(昭和48)年の1件のみ。
(8) 辞令書
資料年代1953(昭和28)年〜1979(昭和54)年。3件。議員や知事の辞令は含まれていない。
(9) スピーチ
資料年代1970(昭和45)年〜1978(昭和53)年。52件。年代不確定資料あり。
(10) ノート・資料
資料年代1951(昭和26)年〜1980(昭和55)年。120件。
(11) 写真
人物、年代不明の証明用写真1件。
(12) 原稿・草稿類
資料年代1963(昭和38)年〜1972(昭和47)年。32件。年代不確定資料あり。
(13) 切り抜き記事
資料年代1951(昭和26)年〜1980(昭和55)年。158件。
(14) 米太平洋総司令部文書
沖縄上陸作戦計画の一部と思われるが、来歴不明。1件。
(15) 雑纂
資料年代1952(昭和47)年〜1976(昭和51)年。12件。
西原村長時代の文書 平良幸市は1947(昭和22)年、沖縄民政府により西原村長に任命され、翌1948(昭和23)年に行われた西原村長選挙では無投票当選、1950(昭和25)年に群島議会選挙出馬のため辞任するまでその職にあった。資料年代1948(昭和48)年〜1950年。2件。
(16) 参考資料
資料年代1947(昭和22)年〜1977(昭和52)年。67件。
【公開年月】 2005(平成17)年
【主言語】 日本語
【数量】 723件
平良幸市選挙パンフレット 資料コード0000062085
1972(昭和47)年5月15日、沖縄の施政権が日本へ返還され、新たに沖縄県が発足しました。
平良は、1950(昭和25)年の沖縄群島議会議員から琉球政府立法院議員まで連続当選した唯一の議員で、日本復帰後の沖縄県議会議員選挙にも当選しました。
平良の後援団体が作成したこのパンフレットには実績と人柄を称える言葉が掲載されています。
土地問題渡米資料 資料コード0000061821
1955(昭和30)年5月12日付けで琉球政府企画室が配布した「土地問題渡米資料」です。
米軍は沖縄の地主から基地建設のために接収した土地の地料を一括払いする方針を打ち出しますが、住民はこれを実質的な土地買い上げとみて強く反発しました。
この軍用地問題に対する住民の意思と実情を訴えるため、琉球政府は比嘉秀平行政主席以下6人の代表団をアメリカに派遣しました。第1回代表団は1955年5月23日に出発、この文書は代表団の手持ち資料としてまとめたものを、当時立法院議員だった平良が入手したものと思われます。
目次の章立てにそって収録された多くの実例やデータから、当時の沖縄の状況を知ることができます。
沖縄代表団は米国議会下院軍事委員会で「土地を守る四原則」に基づいて証言しました。この証言を吟味するため、同委員会特別分科委員会は1955年10月にプライス調査団を沖縄に派遣、しかしこの調査団が出した結論は米軍の方針をおおむね妥当としており、沖縄住民の期待に応えるものではありませんでした。このいわゆる「プライス勧告」に反対する住民運動が、沖縄の土地を守る「島ぐるみ闘争」へと大きく広がっていったのは、翌1956(昭和31)年のことでした。
就任挨拶 資料コード0000061770
「系列化しない」と題した平良のメモには「政党政治を否定するものではありません。
しかし、本土の政党政治の現状は必ずしも政党政治の本領を発揮しているとはうけとれません。
むしろ一党独裁による形式的政党政治は幾多の欠陥を生じた現状だと思います。現状打破のため政党間に話し合いのあることも当然かと思います。この現状においてわれわれが独自の立場にある政党から本土の政党に包含されることになれば本土政党政治の欠陥に沖縄問題を埋没させる結果になるものであります。よって系列化しない」 とあります。
また「軍備否定」のメモには「軍備のない国のないことも厳然たる事実でありましょうが、同時に軍備に限度なく、その強化へ強化へと拡大され、その結果はドイツ、日本が国の運命をあやまったことも事実であります」と書いています。
これらのメモは1970年頃のものと思われます。日本への施政権返還の日程が固まってきた時点で、土着政党である沖縄社会大衆党の立脚点を確認する平良の信念がうかがえます。
【沖縄県公文書館における分類】
沖縄県公文書館資料/その他資料/文書/個人文書/平良幸市文書
【資料種別】 文書・刊行物・写真
【利用または複写条件】 一部制限あり
【検索ツール】 沖縄県公文書館資料検索ARCHAS21
【関連資料群】
・沖縄社会大衆党文書
・沖縄県祖国復帰協議会文書
【原本/複製】原本