「復帰措置に関する建議書」
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【資料コード】
【文書の作成者】
琉球政府
琉球政府
【文書の作成時期】
1971年11月
1971年11月
【目次】
1.はじめに
2.基本的要求
(1)返還協定について
(2)沖縄基地と自衛隊配備問題について
(3)沖縄開発と開発三法案について
(4)裁判の効力について
(5)厚生、労働問題について
(6)教育・文化について
(7)税制、財政、金融について
3.具体的要求
(1)沖縄復帰に伴う対米請求権処理の特別措置等に関する暫定法の立法要請(要綱)
(2)沖縄振興開発特別措置法案に対する要請
(3)沖縄開発庁設置法案に対する要請
(4)沖縄振興開発金融公庫法案に対する要請
(5)沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律案に対する要請
(6)沖縄の復帰に伴う関係法令の改廃に関する法律案に対する要請
1.はじめに
2.基本的要求
(1)返還協定について
(2)沖縄基地と自衛隊配備問題について
(3)沖縄開発と開発三法案について
(4)裁判の効力について
(5)厚生、労働問題について
(6)教育・文化について
(7)税制、財政、金融について
3.具体的要求
(1)沖縄復帰に伴う対米請求権処理の特別措置等に関する暫定法の立法要請(要綱)
(2)沖縄振興開発特別措置法案に対する要請
(3)沖縄開発庁設置法案に対する要請
(4)沖縄振興開発金融公庫法案に対する要請
(5)沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律案に対する要請
(6)沖縄の復帰に伴う関係法令の改廃に関する法律案に対する要請
【資料解説】
「復帰措置に関する建議書」は、本土復帰に際して沖縄県の声を日本土政府と返還協定批准国会(沖縄国会)に手渡すために作成された建議書です。当館では、その複製版が所蔵されています。
同建議書(約五万五千字)の作成を担当した琉球政府の復帰措置総点検プロジェクトチーム(本部長:副主席の宮里松正)は、県民各層の声に照らして過去二十六年間における諸問題を総点検し、復帰にあたっては県民の福祉を最優先に考える基本原則に立って、➀地方自治権の確立、➁反戦平和の理念をつらぬく、③基本的人権の確立、④県民本位の経済開発―などを骨組みとする新生沖縄像を描きました。
「非常に難事業だった。ぼう大な資料の中から、これまでの要請書や調整文書を取り出して法案といちいち照合、検討し、チームの審議とさらに県民会議の審議にかけて文章化したので時間はいくらあっても足りなかった」(『激動八年 ―屋良朝苗回想録―』p.179)と、屋良氏が述懐している通り、建議書作成は容易な作業ではありませんでした。
同建議書の完成後、屋良主席は、1971年11月17日、これを持って上京しました。しかしながら、屋良主席の上京の前に、沖縄返還協定は衆院返還協定特別委で自民党により強行採決されてしまいました。東京・赤坂のホテルに着いた屋良主席は、その採決を知らぬまま、報道陣から「ついさきほど返還協定が衆院沖縄返還協定特別委員会で強行採決された。コメントを」と言われました。まさに青天の霹靂でした。屋良氏は、この時のことについて、「呆然自失、なにをいってよいかわからず、コメントを断ってホテルの部屋に逃げ込んだ」(『屋良朝苗回顧録』p.212)と、回想しています。
その後、沖縄返還協定は11月24日衆院本会議で自民党の賛成多数によって可決され、12月22日には、参院本会議でも可決されました。また、復帰関連国内法案も、通常国会で三十日、自民党の単独採決で可決、成立しました。
屋良氏は、復帰については次のように特別の思いを持っていました。「軍事占領支配からの脱却、憲法で保障される日本国民としての諸権利の回復、そして沖縄県民としての自主主体性の確立、これらが私たち県民にとって、全面復帰のもっている内容です。もっと簡単明瞭にいいますと、”人間性の回復”を願望しているのです。きわめて当然な願望であり要求です」(『沖縄はだまっていられない』p.68)。それゆえに、11月17日の強行採決に対して屋良主席がいかに無念の思いをしたかは想像に難くありません。
「復帰措置に関する建議書」は、本土復帰に際して沖縄県の声を日本土政府と返還協定批准国会(沖縄国会)に手渡すために作成された建議書です。当館では、その複製版が所蔵されています。
同建議書(約五万五千字)の作成を担当した琉球政府の復帰措置総点検プロジェクトチーム(本部長:副主席の宮里松正)は、県民各層の声に照らして過去二十六年間における諸問題を総点検し、復帰にあたっては県民の福祉を最優先に考える基本原則に立って、➀地方自治権の確立、➁反戦平和の理念をつらぬく、③基本的人権の確立、④県民本位の経済開発―などを骨組みとする新生沖縄像を描きました。
「非常に難事業だった。ぼう大な資料の中から、これまでの要請書や調整文書を取り出して法案といちいち照合、検討し、チームの審議とさらに県民会議の審議にかけて文章化したので時間はいくらあっても足りなかった」(『激動八年 ―屋良朝苗回想録―』p.179)と、屋良氏が述懐している通り、建議書作成は容易な作業ではありませんでした。
同建議書の完成後、屋良主席は、1971年11月17日、これを持って上京しました。しかしながら、屋良主席の上京の前に、沖縄返還協定は衆院返還協定特別委で自民党により強行採決されてしまいました。東京・赤坂のホテルに着いた屋良主席は、その採決を知らぬまま、報道陣から「ついさきほど返還協定が衆院沖縄返還協定特別委員会で強行採決された。コメントを」と言われました。まさに青天の霹靂でした。屋良氏は、この時のことについて、「呆然自失、なにをいってよいかわからず、コメントを断ってホテルの部屋に逃げ込んだ」(『屋良朝苗回顧録』p.212)と、回想しています。
その後、沖縄返還協定は11月24日衆院本会議で自民党の賛成多数によって可決され、12月22日には、参院本会議でも可決されました。また、復帰関連国内法案も、通常国会で三十日、自民党の単独採決で可決、成立しました。
屋良氏は、復帰については次のように特別の思いを持っていました。「軍事占領支配からの脱却、憲法で保障される日本国民としての諸権利の回復、そして沖縄県民としての自主主体性の確立、これらが私たち県民にとって、全面復帰のもっている内容です。もっと簡単明瞭にいいますと、”人間性の回復”を願望しているのです。きわめて当然な願望であり要求です」(『沖縄はだまっていられない』p.68)。それゆえに、11月17日の強行採決に対して屋良主席がいかに無念の思いをしたかは想像に難くありません。
<主な参照文献>
屋良朝苗1977年『屋良朝苗回顧録』朝日新聞社
屋良朝苗1985年『激動八年 ―屋良朝苗回想録―』沖縄タイムス社
屋良朝苗1969年『沖縄はだまっていられない』株式会社エール出版社
屋良朝苗1972年『沖縄 今この時』株式会社あゆみ出版社
2012年10月26日朝刊『琉球新報』(見出し:「一条の光 ―「屋良朝苗日記」に見る復帰―」)