戦後沖縄の主な出来事
琉球政府文書から、戦後沖縄の主な出来事を裏付ける公文書をご紹介します。
1945年 米軍による沖縄占領がはじまる
沖縄上陸と同時に米軍は、日本の権限停止と占領の開始を告げる布告を公布しました。この布告は、「米国太平洋艦隊及び太平洋区域司令長官兼南西諸島及其近海軍政府総長」の肩書をもつC・W・ニミッツの名で発せられたため、「ニミッツ布告」とも呼ばれます。
「海軍軍政府布告 第001号」 資料コード: RDAP000031
1945年8月:沖縄諮詢会の設置(住民自治の源流)
米軍政府の諮問機関として「沖縄諮詢会」が設置され、沖縄民政府などを経て、琉球政府へと発展します。諮詢会から沖縄民政府までの一連の会議録のうち、この資料には、“住民自治”をめぐる「猫(軍政府)の許す範囲しか鼠(沖縄)は遊べない」といったワトキンス少佐の有名な発言がみられます。
「会議録 4 沖縄民政府 1946年 4月」 資料コード: R00160114B
1952年4月:琉球政府の設立
それまでの奄美、沖縄、宮古、八重山の群島別統治が廃止され、全琉球を統括する“中央政府”として琉球政府が創設されました。琉球政府は、立法・行政・司法の三権を備えていましたが、米国民政府の管理下にありました。
「琉球政府創立式典関係書類1952年 行政主席官房」 資料コード: R00000494B
1956年:島ぐるみ闘争
米国は基地拡張のため、いわゆる“銃剣とブルドーザー”により次々と住民から土地を接収しました。1956年6月、土地接収を容認する「プライス勧告」が伝えられると、その内容に住民は失望し、数十万人規模の島ぐるみ闘争に発展しました。
「プライス勧告とその反論」 資料コード: R00020577B
1958年:B円からドルへ
1948年から通貨として使われていたB型軍票(B円)が、58年に経済振興などを目的として米ドルに切り替えられました。この資料からは、当時の住民がドル切り替えを歓迎するとともに、物価上昇や民族資本への影響を危惧していたこともみてとれます。
「経済政策の立案調整調査研究に関する書類」 資料コード: R00005659B
1959年6月:宮森小学校ジェット機墜事件
米軍の戦闘機が、石川市(現うるま市)の宮森小学校に墜落し、児童を含む17名の死亡者、200名を超える負傷者を出しました。琉球政府は「石川事件」と呼び、被害者や遺族への補償問題などに取り組みました。この資料からは、その対応の経緯がよみとれます。
「会議録 石川事件対策特別委員会 第14回議会 定例 1959年閉会中継続審査1」 資料コード: R00158307B
1967年:教公二法、廃案に
1966年、教職員の争議行為の制限などを含む「地方教育区公務員法」及び「教育公務員特例法」が立法院に勧告されると、復帰運動の中核を担う教職員らの激しい抵抗により67年に廃案となりました。この資料は、沖縄教職員会の要望事項に対する文教局の回答です。
「教公二法関係資料 1966年度 4-4 法案別」 資料コード: R00160110B
1968年8月:甲子園で興南旋風
1968年、興南高校が夏の甲子園で県勢初の準決勝に進出し、ベスト4に輝きました。この資料からは「興南旋風」という言葉を残したチームの“凱旋”を称える式典やパレードの計画をみることができます。
「興南高校野球チ-ム歓迎式書類」 資料コード: R00000536B
1968年:行政主席、公選へ
1968年11月、初の公選選挙で「即時・無条件・全面返還」を掲げた革新派の屋良朝苗が、保守派の西銘順治を破って当選しました。この資料は、行政主席を任命制から公選にするための「行政主席選挙法」の素案です。
「行政主席選挙法勧告案(以下略)」 資料コード: R00020648B
1971年:レッド・ハット作戦(毒ガス移送)
米軍は沖縄に持ち込んだ毒ガスを撤去するため、「レッド・ハット作戦」と称し、ジョンストン島への移送を実施しました。この資料では、移送ルートや手順などの作戦内容が日本語で説明されており、米軍が住民に安心感を与えようとしていた様子が伺えます。
「レッド・ハット作戦特別安全対策要綱」 資料コード: R00004803B
1972年5月:日本へ復帰、届かなかった建議書
1972年5月、沖縄は日本に復帰しました。前年11月、琉球政府は沖縄側の要望を『復帰措置に関する建議書』にまとめ、屋良主席はこれを携え上京しました。しかし建議書が提出されないうちに、沖縄返還協定は国会で強行採決されました。
「復帰措置に関する建議書 昭和46年11月」 資料コード: R00001217B