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米国収集資料

写真展 「USCARの時代」

  2022年(令和4)、沖縄は日本に復帰して50年の節目を迎えます。1945年(昭和20)から27年間続いた米国統治がもたらした様々な影響は、半世紀を経た今もなお沖縄に色濃く残ります。今回のWeb展示では「USCARの時代」と題して7回にわたり、米国民政府広報局の写真から浮かび上がる沖縄の姿を伝えます。

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第1回 公衆衛生~結核との闘い~

1.ペスケラー博士と結核

ペケスラー博士『結核予防会沖縄県支部 創立30周年記念誌』より[G00006934B]

 戦前から沖縄では結核が猛威を振るい、その死亡率は全国ワーストでした。1951年(昭和26)、沖縄の文化、教育、経済、公衆衛生、医療について調査研究を行う米国太平洋学術調査団が来島しました。その後、そのメンバーであった結核専門医のペスケラー博士が米軍政府公衆衛生部に勤務となり、軍官民一体での抗結核組織が作られます。翌1952年(昭和27)、琉球結核予防会(志喜屋孝信会長)が発足しました。同年ペスケラー博士は、米国結核予防発行の複十字シール6万枚を無償で貰い受け、これに「琉球」の文字を加刷し、慈善販売をしました。この売上などを活動資金とし、兼城村(現・糸満市兼城)にベッド60床の療養所を備えた「琉球結核科学研究所」を設置しました。同施設は米軍MP隊本部からの施設一切が払下げられ、琉球結核予防会の所有財産となりました。同じ頃、沖縄本島に3か所、宮古・八重山に各1か所の保健所が設置され、そこに配置された公衆衛生看護婦も、結核をはじめ、マラリアなどの風土病の改善に大きな役割を果たしました。琉球結核予防協会10周年の際には、ペスケラー博士の功績を顕彰して、博士の姿が描かれたクリスマスシールが図案化されました。

ペスケラー博士のポートレート『琉球結核予防会 創立10周年記念 琉球結核対策小史』より [T94000013B]

1962年のクリスマスシール 『守礼の光1967年5月』より [U00000446B]

『今日の琉球第6巻9号 1962年9月』より [U00000174B]

 

2. 結核予防複十字シール

 1952年(昭和27)、琉球結核予防会はアメリカ結核予防クリスマスシールの無償提供を受け、「琉球」の2文字を加刷して「琉球結核予防クリスマスシール」運動のキャンペーンをスタートさせました。1953年(昭和28)からは琉球結核予防会の自主的デザインとなった同シールは、発行以来各方面で親しまれ、沖縄の結核予防に貢献してきました。1971年(昭和46)、沖縄の日本本土復帰を前に琉球結核予防クリスマスシールの発行は終了しました。

『守礼の光 1967年5月』より[U00000446B]

 1965年(昭和40)に発行されたクリスマス・シール「ちからムーチー」は最初で最後の一般公募によるもので、屋我地村(現・名護市)在住の大山勝氏の作品です。子の健康を願い、ムーチーを天井から吊るし、大人がこどもたちを喜ばしていた風習は当時の沖縄において失われつつありました。

 

3. 琉球結核予防シールの啓蒙活動

1962年クリスマス・シールを購入する高等弁務官 1962年8月31日[34-30-3]

 琉球結核予防会設立当初、当時琉球放送(KSAR)局長でもあった川平朝申専務理事は、連日ラジオで琉球結核予防シールの啓蒙活動行い、シールの普及に努めました。同氏はKSARが米国民政府運営から商業放送へと移行した1954年(昭和29)、琉球放送(KSAR)の局長を辞任し、琉球結核予防会事務局長兼常務理事として事業推進に取り組みました。

 写真はシールを売り込む川平朝申氏とシールを購入するキャラウェイ高等弁務官。毎年琉球結核予防クリスマスシール発行の時期になると歴代の高等弁務官をはじめ、USCARの高官たちはその普及活動に協力してきました。USCAR広報局の写真にもその様子が数多く撮影されています。

 

4. 琉球結核科学研究所と小児結核

 1965年(昭和40)12月1日、琉球結核科学研究所に小児結核患者教育のために特殊学級が設立されました。翌年9月1日には中学校も開設され、兼城小学校の分校として認可されました。その後、全島から児童、生徒が入所するようになり、1968年(昭和43)に組織替えをし、琉球政府立鏡が丘養護学校兼城分校となりました。生徒数は多い時には40人から50人にも達しました。

琉球結核科学研究所に扇風機を贈る空軍婦人クラブ 1961年7月17日[260CR-33_0345-01]

 

5.  琉球結核予防会へ寄付

 琉球結核予防協会に対する寄付は、同会の活動が一般大衆に知られるにつれて多方から寄せられるようになりました。1956年(昭和31)には昭和産業株式会社社長より5トンバスの改装寄贈、第一相互銀行会長より4,164ドルの寄贈を受けました。また、沖縄興業株式会社(オキコ)は、「クリスマスキャンデーセール」による収益金を寄贈、その他個人や米軍関係からも多くの寄贈を受けていました。

結核検診用の車 1968年11月8日[260CR-36_0450-01]

写真解説:「フォートバックナー婦人クラブは11月14日午後3時から琉球結核予防会事務所で行われる贈呈式でこの車の購入費全額1万3,500ドルを贈ることになっている。」

 

6. 医療従事者の研修

 琉球政府職員の職員研修の一環として「第三国研修」があり、公衆衛生の分野においても人材育成が図られました。当館所蔵の1969年度第三国(台湾)職員研修計画作成要領には、「研修計画は将来の展望に立って長期事業計画を効率的に運用するため、職員の技術訓練ならびに資質の向上を図るものとする」とあります。

第三国研修計画 1962年10月2日[260CR-03_0667-01]

写真解説:「琉球人看護婦が台湾へ – 米国の第三国研修計画で台湾に研修に行く琉球人看護婦3名は、高等弁務官室公衆衛生福祉部のバーバラ・L・シェイ氏(左から3人目)と旅行について話し合っている。写真の看護婦は左から、タイラ・ミツコ氏(結核対策)、タナハラセツコ氏(麻酔)、タマキ・シズコ氏(結膜炎)。」

 

7. 風土病との闘い(離島地域)

 結核対策が本格化するなか八重山、宮古には風土病であるマラリア、フィラリアの問題がありました。マラリアはマラリア原虫を持つ蚊に刺されることで感染する病気で、フィラリアは糸状線虫という寄生虫に寄生された蚊に刺されることでうつるどちらも命に関わる深刻な病気です。

 1949年(昭和24)頃、八重山、宮古では、琉球政府計画移民の入植とともに小康状態だったマラリアが再び流行しました。1956年(昭和31)、琉球政府は八重山保健所にマラリア防圧課を新設しました。翌年から開始されたマラリア防圧対策により、1962年(昭和37)には発生率はゼロとなりました。

 1965年(昭和40)、宮古においては、琉球政府厚生局はUSCARの指導の下、フィラリア防圧対策が開始されました。そして翌1966年(昭和41)防圧に成功しました。宮古に続き1967年(昭和42)に石垣島で開始された防圧作戦は翌1968年(昭和43)に成功し、1978年(昭和53)には宮古、八重山ともにフィラリア陽性者は皆無となりました。

ベッド30台を備えた都の結核病院をオープンするムーア高等弁務官 1957年8月16日[31-03-3]

診療所に於ける小児の治療医師介補、富野廉好氏、母親に連れてこられた子 1952年12月13日[260CR-12_0131-01]

写真解説:「伊野田入植地は入植以来、直々とその成果を収めつつある。地元民と政府の援助、更にアメリカの絶大なる援助によって学校ができ、次いで診療所が建設された。診療所は駐在の医師介補によって同部落でマラリアの予防対策、その他衛生問題等に対し、熱心に維持・運営されている。」