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米国収集資料

写真展「USCARの時代」第7回

要塞化する沖縄~核の持ち込み~

~キューバ危機と「オキナワ危機」~

 1946年(昭和21)から1958年(昭和33)にかけて、米軍は太平洋のマーシャル諸島で計67回の核実験を繰り返しました。1954年(昭和29)3月1日にビキニ環礁で実験された水爆「ブラボー」の威力は、広島型原子爆弾の千倍とされ、当時周辺海域にいた日本のマグロ漁船、第五福竜丸の組合員23人が大量の「死の灰」を浴びました。この事件で、日本本土で激しい反核世論が沸騰しました。
 一方、アメリカとソ連の核開発が熾烈化するなか、1950年代半ばから、沖縄の基地に核兵器の配備が急速に進みました。1956年(昭和31)、嘉手納基地に地対地戦術核ミサイル「オーネスト・ジョン」が持ち込まれました。さらに、1960年代前半、広島型原子爆弾の約70倍の破壊力を有する「メースB」巡航ミサイルが32基配備されました。最も多い時で1300発の核兵器がひしめき、小さな島は共産圏をにらむアジア最大の「弾薬庫」と化します。1962年(昭和37)10月のキューバ危機の際には、沖縄のメースB基地も核戦争へ向けた臨戦態勢にありました。

 C-124から降ろされる「オーネスト・ジョン」ロケットの発射台
嘉手納 1956年 1月 [08-23-3]

 

与那原飛行場の発射直前の“オーネスト・ジョン“ロケット
西原町 1956年 3月16日  [08-46-2]

 

 

1.核の持ち込み~ボローポイント~

 県内で一番先に核基地となったのは読谷村のボローポイントでした。1945年(昭和20)4月1日に本島に上陸した米軍は、本土への出撃拠点としてボロー飛行場を建設しました。50年代からはターゲットを共産圏へと変え、ミサイル基地へと機能強化されました。地対空ミサイル「ナイキ・ハーキュリーズ」、続いて「メースB」巡航ミサイル基地が建設され、地対空ミサイル「ホーク」と合わせて3種類のミサイルが配備されました。そのうち、メースBミサイルは、広島型原子爆弾の70倍の破壊力を持ち、射程距離は2400キロ、中国、ソ連の一部を射程範囲内に捉え、沖縄の核配備の象徴とされました。メースBミサイルは、バンカーと呼ばれる半地下の発射台から発射するタイプのミサイルで、基地建設には沖縄の作業員たちが従事しました。しかし、作業員たちには、核兵器用の基地であることは伏せられていました。メースBミサイルの基地拠点は、読谷村、恩納村、うるま市、金武町の県内4か所に作られました。

 

琉球列島米国民政府庁舎にて行われたナイキミサイル説明会  1959年10月23日
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ホーク・ミサイル基地予定地現地視察/読谷村長浜フキダシ原にて [13-36-4]

 

メースBミサイル発射台の建設 1961年7月12日 [342-B-USAF-93822] 

 

建設が進むメースBミサイル発射基地 1962年4月 [342-B-USAF-94084]

 

建設が進むメースBミサイル発射基地 1962年4月 [342-B-USAF-94083]

 

メースBミサイル発射台の扉が開いたところ [342-B-USAF-94086] 

 

発射台の中でメースBミサイルの整備をする技術者 1962年4月 [342-B-USAF-94088]  

 

メースBミサイル発射台からの眺め 1962年4月  [342-B-USAF-94087]

 

3種類のミサイルが配備された読谷村のボロー飛行場一帯 1947年1月29日米軍撮影の空中写真に作図 [0000206585] FBIS(Foreign Broadcast Intelligence Service:海外放送情報局)は現在の瀬名波通信施設跡地 

 

残波岬からミサイル射撃  読谷村 1961年1月14日 [260CR-40_0453-01] 

 

年次ナイキミサイル演習射撃  1962年1月12日 [260CR-40_0506-01]

ナイキミサイル発射基地は、県内に8か所建設されました。極東の緊張をさらに刺激し、沖縄県民を不安に陥れるものであるとして、立法院をはじめ、他の自治体からも発射演習中止を求める抗議の声が上がりました。

 

ホーク・ミサイル基地予定地 渡嘉敷 [13-40-1]

ホーク・ミサイルは渡嘉敷島の2か所を含めて、7か所に配備されました。うち、4か所の施設が復帰に伴い、陸上自衛隊の分屯地へ移管されました。

 

ホーク・ミサイル 沖縄ミサイルサイト-ガイド 1967年 6月[18-36-4]

 

2.キューバ危機勃発~核戦争の瀬戸際~

 1962年(昭和37)10月23日、メースミサイルの核弾頭にも使用された核爆弾マーク28 が嘉手納飛行場に搬入されました。同日(日本時間)、米国ではケネディ大統領が、ソ連がキューバへミサイルを導入している事を確認したと初めて公表しました。同時に米軍は計5段階あるデフコン(防衛準備態勢)を「3」から準戦時の「2」へ引き上げました。翌24日、ソ連のさらなるミサイル搬入を阻止するため、米国はキューバの海上封鎖を開始しました。沖縄のメースB基地は核戦争の最前線に立たされ、世界中が核戦争勃発の恐怖に包まれました。

 

嘉手納飛行場に搬入される核爆弾マーク28  1962年 10月23日 [342-B-USAF-109805]

 

嘉手納飛行場に搬入される核爆弾マーク7  1962年10月23日 [342-B-USAF-109807]

 

1962年10月14日 米軍がキューバのサン・クリストバル基地にミサイル発射場を確認
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RBM FIELD LAUNCH SITE  San Cristobal #1   14 OCTOBER 1962 [342-B-USAF-167731

 

 

3.日本の対応~米国へ「ひっそり持ち込み」打診~

 1960年(昭和35)6月23日、現行の日米安全保障条約が発効されました。日本国内へ核兵器などを持ち込む場合には、日米間の事前協議が必要となりました。しかし、対象になったのは「日本国内」であったため、当時アメリカの施政下にあった沖縄は対象外でした。
 安保条約調印の前後、日本では、米軍基地の恒久化を招く内容に対して、戦後史上最大の国民闘争といわれる安保闘争が1年半にわたり続いていました。日本政府は、沖縄へメースBなどの武器を持ち込む際の米国の事前広報が、逐一世論を刺激している現状を憂慮していました。この機密文書では、小坂善太郎外相から、米軍に対しミサイル持ち込みを「もっとひっそりと」行えないかと事後発表の打診があったと伝えています。

 

ミサイル搬入の際の広報の在り方についての機密文書  1961年11月13日 [0000105485]

 

4.ミサイル撤去と密約~南西諸島への自衛隊配備~

 メースBミサイルの撤去が決まったのは、1969年(昭和44)11月のワシントンでの首脳会議でした。佐藤栄作総理とリチャード・ニクソン大統領は沖縄からメースBの撤去方針を発表することで、「核抜き返還」の意義を強調しました。しかし、その一方で、重大な緊急事態の際には、沖縄に核兵器を再び持ち込むことを認めるとした「沖縄核密約」の存在が指摘されていました。
 2009年(平成21)、「密約」問題などの調査のため、当時の鳩山内閣において、外務省内に調査班、省外の有識者委員会が設置されました。2010年(平成22)、外務省と有識者会議が公表した調査結果では、佐藤元総理の遺品に署名入りの「合意会議録」が残されていたことを認定しました。

 1970年(昭和45)までにメースBは撤去され、ナイキ・ハーキュリーズなどのミサイル基地が関連した施設の多くは、自衛隊の「高射教育訓練場」として移管されました。
 しかし、USCAR時代に始まったミサイル配備による沖縄要塞化は、範囲を南西方向に広げながら生き続けています。2010年(平成22)、政府は自衛隊の南西地域へのシフトを打ち出しました。2016年(平成28)から奄美大島、宮古島、石垣島に陸上自衛隊ミサイル部隊の配備が進んでおり、一部受け入れ賛成の声もある中、住民の間では「有事の際の標的になるのでは」との不安の声があがっています。